ルドルフ・オットー『聖なるもの』

 

 感覚を越えるものをただ信じることと、それをさらに体験することとは別である。聖なるものについての観念を持っているということと、さらにそれが働いているもの、作用するもの、働きつつ現れるものだと気づき、聞き分けることとは別である。

 この第二番目のことがらが可能であること、つまり内的な声、宗教的良心、心の中で静かにささやく霊、予感や憧れが聖なるものを証するばかりでなく、特別な出来事や機会、人物、また自己啓示の行為による証において、聖なるものと出会うこともできるということ、したがって神的なものについての霊からくる内的啓示と並んで、外に現れる啓示があるということは、すべての宗教の、そして宗教そのものの根本的確信である。

 

聖なるもの (岩波文庫) | オットー, 久松 英二 |本 | 通販 | Amazon

 という本を読んでいた。内容はこんな感じ。

 

合理的に発達した宗教の核心には、非合理的なもの――感情や予覚による圧倒的な「聖なるもの」の経験が存在する。オットー(1869-1937)はその本質を「ヌミノーゼ」と名づけ、現象学的・宗教哲学的考察を展開する。キリスト教神学のみならず哲学・比較宗教学にも多大な影響を与えた、20世紀を代表する宗教学の基礎的名著。新訳。

岩波文庫『聖なるもの』の表紙から)

 むかし、カール・シュミットの『政治的なものの概念』について書かれた何らかの記事を読んだときに、「科学に『真偽』、美術に『美醜』、道徳に『善悪』、宗教に『聖俗』という、根本的な構造となる対立関係があるのと同様に、政治にも『友敵』というのものがある」といった文章を読んで、(ほかはわからなくもないけど、「善悪」や「美醜」とは区別された「聖俗」の対立というのは体感として、個人的にはよくわからないな…)と思ったことがある。

 それ以降、自分の使っていない(あるいは使っているけれど意識していない)経験の構造である「聖俗」についてどこかのタイミングで知れたらいいな、と思っていたのだが、そういう個人的なニーズにけっこう合致した読書だったように思う。

 

 「聖なるもの」の経験は、合理的な把握に尽くされるものではなく、怖れとか、巨大なものへの崇敬、それを前にしたときの「じぶんってちいちぇえな…」となるような「被造者感覚」みたいなもの、――これを「ヌーメン的感情」と名付けている――も大事だよ、ということが書かれていて、たしかに納得感がある。

 僕の周囲には宗教の実践に乏しいひとばっかりだが、人生のほかの部分(趣味とか仕事とか人間関係とか)にこの「ヌーメン的感情」をもってあたっているのではないか、と思わせるような例もあって*1、なんというか、この読書によってけっこう便利な概念を手に入れたものだな、と思った。

 

 明示的になにかを信仰はしてこなかったけど、そういった感情に心あたりがある方は手に取ってみたら、いい自分の見つめなおしになるかも。実用的でおすすめの本ですよ。

*1:じゃあお前はどうなんだよというと、いったん僕自身からはかなり縁遠い感情かなあ…、と今のところは感じた。