忙しい人のためのダン・シモンズ『夜更けのエントロピー』

 

夜更けのエントロピー (奇想コレクション)

夜更けのエントロピー (奇想コレクション)

 

 この本を買って目次ページを開こう。この本に収録されている7つの短編が、それがはじまるページ数とともに記されている。まずは一本目の短編「黄泉の川が逆流する」を読んでみてほしい。この物語はこういうふうに始まる

 

ぼくは母が大好きだった。その母の葬儀が終わって棺が地中に下ろされると、ぼくたち家族は家で母の帰りを待った。

 死んだ母親が復活して帰ってくる。「復活主義者」の家庭に生まれた「ぼく」の視点から、「復活主義者」への差別や、復活させてしまったという重荷を背負う家族の苦悩が描かれる。物語はつぎの一文で終わる。

 

(…)まっすぐ家に帰る。そこには家族がいて、僕の帰りを待っているのだから。

 どんなに才能あふれた作家でもキャリアのある時期にしか書けないような、信じられないくらいの切れ味を持った作品で、読んだひとはおそらく、この物語のことを二度と忘れることはできないだろう。

 

 これでこの短編集のことを気に入ったのだけど、ぜんぶの短編を順番に読んでいく時間はない! というかたがいたら、いったん引き続きの二作「ベトナムランド優待券」「ドラキュラの子供たち」は飛ばしてもらってもいいと思う。そのつぎの作品は表題にもなっている「夜更けのエントロピー」で、これは大傑作なのだが、この作品を読むにはちょっと助走があったほうがいいので、先の二作を飛ばしたのであったらこれも飛ばしていい。

 

 5番目の短編「ケリー・ダールを探して」がこの短編集最強のキラーストーリーである。アル中の失格教師である主人公が、再構成されていく世界のなかでかつての教え子と追いかけっこの殺し合いをする。驚くべきアイディアが、世界を見つめる作家のまなざしによって肉づけされていて、ストーリーにはひねりがあり、きれいな結末がある。作り物のようにうまくまとまりすぎることもなく、上手いぐあいに物語の不思議に身をゆだねている。

 

 読みおわったのならそこでいったんこの本を置いて、家のことをする時間だったり仕事のことをする時間だったり、とりあえず読書からはいったん離れて、そのあとに6番目の短編を読むのがいちばんよい。「最後のクラス写真」はタイトルをぱっと見ほっこり系の作品に見えるが、実際はゾンビに制圧された世界で子供ゾンビを捕獲して教室のいすに鎖で縛りつけて授業をしている教師を主人公にした、地獄絵図の「がっこうぐらし!」のような短編である。半分あってるけど半分は嘘です。

 

 そのあとは「夜更けのエントロピー」を読み、忙しいならこの本はここで切り上げてもいい。世の中には楽しいことやしなきゃいけないことがたくさんあり、時間はつねに足りないのですから。

 もし時間があれば、あるいは時間を作る気になったら、のこっている短編を好きな順に読んでいっていいと思う。どの作品も、読む時間を費やしてもお得だと言えるくらいには面白い。

 

 ただ、ちょっと注意点があるとすれば。

 ダン・シモンズさんは素材の選びかたと、それを物語に組み上げるアイディアに特徴のある作家だと思う。好奇心や創造性をデリカシーより優先してしまうところがあって、それは長所でも短所でもあるのですが、ひょっとしたら、それぞれの素材を物語に組み上げるときの無責任さというか、他人事さみたいなところににちょっと違和感を覚えることは、あるかもしれない。