灯台で眠れ


 妹が熱病にかかってしまった! 僕の命よりも大切な妹が! ……というのはすこし言いすぎだったかもしれない。僕はふだんは生まれ故郷を離れ、ずっと遠くの宿場町にある幼稚舎で商業の勉強をしながら馬の世話をしているのだが、そこでは友達にも親方にもめぐまれ、生まれ故郷であるちいさな港町のことなんて思い出さない日のほうが多いくらいだった。妹にしても、冬の里帰りのときにはじめてその存在を知った。母と、ベッドで石になって寝たきりになっている父に挨拶をして、中庭に靴を乾かしに出たとき、そこには籐でできたゆりかごにくるまれた僕の妹がいた。「かあさん! これは誰!」「あら、あなたの妹よ」「そんなこと、ひとことも聞いてないよ!」「ごめんね。手紙を出すのを忘れていたわ」――なんて粗忽な母だろう!

 

 その日は一日中怒りが収まらなかった。ふだんはずっと遠くの宿場町にいる僕だって、この家族の大事な一員なのに。この家族に起きた、メンバーが増えるという重大な事柄を、どうして教えてくれなかったのか。「聞きなさい、お兄ちゃん。お産が大変だったんだよ。それにこの子は、生まれてしまってもまだ、生まれるまえの国のことが恋しいみたいで、しょっちゅう自分で息を止めるんだ。ほら、見てごらん」石になってしまった父が、唇をぎしぎし言わせながら僕にそう語りかけた。家族にしか聞き取りようがない、かすれて乾いた声だ。僕は父に従って、父の腕のなかでキルトにくるまれた妹を覗きこんだ。たしかに、妹は息を止めていた。「もし、この子が死んでしまったら、そのときは必ずあなたに手紙を書こうと思っていたのよ。そっちのほうが、伝えなければならない重要な事柄だからね」と母が言った。僕は母親を許した。

 

 そのあとになってはじめて、妹をかわいがることができた。なにかに怒りを抱えたままべつのなにかをかわいがることはできないのだ。

 

 冬の里帰りのあいだじゅうずっと、籐のゆりかごと妹を抱えて、ひまがあれば港町を散歩していた。ある日は、町の東のはずれにある小川に抱きかかえた妹の小さな足をそっとつけさせて、この世には冷たい水の流れがあるのだということを教えた。妹はすこしだけ息を止めたあと、すぐに息を吹き返した。べつの日は、十日に一度だけ開かれるマーケットで妹に似合う涎掛けを探し、これだというものを見つけたあとは値段交渉のやりかたを実演して見せた。妹はすこしだけ息を止めたあと、すぐに息を吹き返した。またある日には町の北にある灯台を訪れ、夕暮れと、日没と、灯台に火が灯る瞬間をふたりで見届けた。なにかを教えることはなかったが(言葉でなにを教えても、妹はまだわからなかっただろうから)、それでも賢い(もしくは、これから成長して賢くなるはずの)妹はこの世界をつかさどっている規則について重要なことに気づいたんじゃないだろうか。妹はきっと、今日は息を止めなかったはずだ。そしてまたべつの日には町をすこし離れた高台の森で、霧と綿毛に包まれた散策のときを過ごした。洞穴で休憩していると、妹はぐんと腕を伸ばして目の前にふわりと飛んできた綿毛をつかんだ。妹がはっきりとこの世のものをつかんだ。僕はそれがうれしかった。

 

 家族が増えた冬はあっというまに過ぎた。僕はすこしの満足感と多大な名残惜しさに包まれて、妹と母と父の残る故郷を乗合馬車に乗って後にした。馬車の車軸はがたがたで、均された道を行くときでさえ激しく揺れたので、僕は御者に文句を言った。「こんな馬車! こんなものを直さずに使っているなんて、もう商売とは言えないぞ!」「うるさい! そんな金がどこにあるっていうんだ。本当なら幼児料金のガキなんか載せてやってる場合じゃねえんだ。文句言うんじゃねえ」しばらくの言い合いのあと、馬車はさらに荒れた道に差しかかり、振動の騒音はおたがいの声を聞き分けることさえできないほどとなったので、僕と御者は口論を続けることをあきらめた。

 

 春から秋にかけて、僕はまた宿場町での仕事と勉強に戻った。筆不精だった母は、これまでよりはまめに妹のことを書いて送ってきてくれた。僕は妹に手紙を送りはしなかったけど(文字でなにを書いても、妹はまだわからなかっただろうから)、たまに宿場町の風景をスケッチして、その画布を追加料金を払って母への返事といっしょに送った。生まれ故郷の故郷では見せてあげられなかったものが、この宿場町にはたくさんあるのだ。

 

 冬になって、そろそろ僕にもまた長い休暇が与えられる番だったのだけど、宿場町では痘病が流行していて、馬の世話をする人手が足りなくなっていた。旅行者が現れるたびに僕はそれとなく尋ねた。「今回の疫病はどうでしょうか? 海岸沿いの村のほうまで広がっていたりするのでしょうか?」旅人は僕を相手にしないか、曖昧な返事を返すのみだった。ただ、疫病はひとの多く住んでいる街でしか広がらないといううわさを信じて、僕は仕事と勉強を続け、手が空いたらまたおなじことを旅行者へ尋ねた。しかしそのうちに旅行者さえめったに現れないようになり、一番仲の良かった友達と、僕を気にかけてくれていた親方が病死した。馬だけは平気な顔で萱を食べていた。僕は街角の宗教者のもとに通い、死や死後の世界について考えるようになった。

 

 夏にようやく休暇が与えられ、僕は一年半ぶりに故郷へと帰った。父はベッドの上で完全な石になっていた。父の固い指の間に自分の指を滑り込ませて遅すぎた別れの挨拶をしたあと、妹を探した。妹は中庭で、籐のゆりかごにくるまれて眠っていた。籐のゆりかごは、妹にはすこし窮屈に見えた。「お母さん、妹に新しいゆりかごが必要だよ! 明日僕が買いに行ってもいい?」「あら、でもそんなお金はないわ」「大丈夫、僕が持ってるから」

 

 その夜に妹は大声をあげて泣いた。触れてみずとも、見るだけではっきりとわかるくらいの高熱を出していた。妹が熱病にかかってしまった! 僕の命よりも大切な妹が! ……というのはすこし言いすぎだったかもしれない。結局のところ命より大切なものなんてこの世には存在しないのだから。命のために、僕たちは頑張ったり休暇をもらったり、笑ったり泣いたりするのだから。

 

 二日目も熱は下がらなかった。僕はお金を握りしめて、町のはずれの黒い森に棲んでいる魔女のもとを訪ねた。魔女はお金を受け取ろうとせず、かわりに僕の精液と包皮を要求した。「極悪の魔女め!」僕がののしるたびに魔女は楽しそうに笑った。僕は屈辱的な取引を飲んだ。

 

 魔女は言った。妹の熱はこれから11日で引くだろう、と。11日目ののちに大きな発作が起きるが、それは病魔が妹の体を離す際の合図であり、どれだけ不気味に見えても気にすることはない、と。命は助かるが、目は見えなくなるだろう、と。治す方法はないのかと魔女を問い詰めたが、魔女は首を振っただけだった。「治す方法はあるが、必要なものをそろえるだけでひと月はかかるだろうね」

 

 それでもと食ってかかったが、魔女は大あくびをして床に眠り込んでしまった。寝言なのか、それともうつつの言葉なのか、眠り込む一瞬まえに魔女は呟いた。「灯台で眠れ」そのつぶやきを復唱しながら、僕は町へと戻った。空の繭がいくつか、森小屋の玄関前に落ちていたことには気づかなかった。

 

 町は睡魔に襲われていた。睡魔に耐えるため、僕は親指の爪を根元まではがしながら歩いた。右足で左足を、左足で右足を踏みつけながら歩いた。どの家の軒先にも空っぽの白い繭が落ちていた。睡魔には繭のとろとろとした中身をおやつにしながら家々を訪ね歩くという習性があるのだ。直接の訪問を免れた僕でさえも、意識が落ちないようにしているだけで必死だった。帰り着いた僕たち家族の家にも、睡魔が訪れた痕跡があった。

 

 妹は中庭ではなく、部屋にいた。母は胸のなかに妹を抱きかかえながら眠っていた。妹が息をしているのか、それとも止めているのかは、母の傾いた首に隠れてよくわからなかった。僕は母のなかから妹を取りだそうとしたが、どう取り出しても母は妹が胸のなかを離れた瞬間にバランスを崩してしまう。しかたなく、僕は父親を二階のベッドから運んできた。石になった父親はとても重く、それだけで半日の大仕事だった。バランスを崩した母を父で支えた。僕は妹を抱いて玄関先のいすに座った。そのままずっと妹の口元を見張っていた。息を止めているのか、いないのか。

 

 妹の熱が下がるまで11日間のあいだ、僕はずっとそうしていた。妹は眠りながら、ときどき息を止めた。そのあと、ときにはすこしして、ときにはしばらくして息を吹き返した。見張っていてもどうすることもできなかった。生きている人間の息を無理やり止めることはできる。けれど、自分の意思で息を止めている人間の息を、どうしてふたたび吹き返させることができるだろうか。

 

 睡魔に襲われた町は、11日間ずっと静かだった。ただ何重にもなった人々の寝息だけが、風を伝わって聞こえてきた。僕は日々を眠気に耐えながら過ごした。風でお腹を満たし、空気のなかにある微粒子を味わい、霧と涙でのどを潤した。毎日毎時間口元を見張りながら、妹の回復を祈っていた。視力を失うという魔女のお告げが誤りであることだけを信じていた。

 

 そして11日が過ぎ、妹は大きな発作を起こし、そのあと熱は下がった。僕は自分の手を綿毛の動きにして妹の目の前を横切らせたが、妹がそれをつかまえることはなかった。太陽が落ち、あたりが真っ暗になっても、妹の瞳はある一点へ向けて固定され動かなかった。そして僕は決意し、妹を抱きかかえ、歩みを始めた。右足で左足を踏み、左足で右足を踏み、爪をはがし、血の出ている指を順番に妹の口に含ませた。その瞳が差している方角へ向かった。「灯台で眠れ」という魔女の最後の言葉を思い出した。

 

 僕と妹が灯台に着いたとき、ちょうど太陽が海へ近づいていくところだった。しばらくのあいだその美しい景色を呆然と眺めていたあと、妹にはこれが見えていないのだということを思い出し、また歩みを続けた。煤にまみれた灯台のらせん階段を上った。階段が終わり、灯火室にたどり着いたとき、やっとこれで眠りにつけるという安心感があたたかく僕を包み込こんだ。まだやるべきことがすこしあった。石炭をスコップで炉へ落したあと、油布で火種を作った。すすけた鏡を引き裂いた上着で拭いた。回りはじめた蒸気機関に、回転鏡のチェーンを括りつけた。回転する光が海を照らしはじめると、妹は目を回しはじめた。自分の腰で床に座り、なにか遠くにある興味深いものに触れようとしているように手を伸ばした。

 

 ちょうど夕日が沈んでいくところだった。僕は灯火室の煤まみれの床の上に横たわった。この世界でやり残したことなどひとつもないと思えたので、目を覚ます期待はしなかった。目を閉じて、そのまま眠りについた。