これもとにかく切り抜けるべきものとなる~ベン・ファウンテン『ビリー・リンの永遠の一日』~

 

 イラク戦争で戦果を挙げた「ブラボー小隊」が特別休暇を与えられ、アメリカに帰ってくる。実家にしばらく帰ったり、彼らを「国の英雄」だともてはやす市民たちにファンサービスをしたり、VIPとしてアメリカンフットボールの試合に招かれて、ハーフタイムにピッチを歩いたりして、……兵士になる前の貧しい暮らしや派遣先での死と隣り合わせの泥にまみれた暮らしとはぜんぜん違う待遇を味わう。胸を張って歩く。酒を飲む。恋をする。

 ……そして、休暇が明け、彼らはイラクへ任期を全うしに帰っていく。

 

 というお話、ベン・ファウンテンさんという人が書いた、『ビリー・リンの永遠の一日』を読んでいた。

 

ベン・ファウンテン、上岡伸雄/訳 『ビリー・リンの永遠の一日』 | 新潮社

中東での戦闘を生き延び一時帰還した8人の兵士。彼らは戦意昂揚のための催しに駆り出され、巨大スタジアムで芸能人と並んでスポットライトを浴びる。時折甦る生々しい戦場の記憶と、政治やメディアの煽る滑稽な狂騒の、その途方もない隔絶。テロと戦争の絶えない21世紀のアメリカの姿を、19歳の兵士の視点で描く感動的長篇。

 こちらが公式のあらすじ。

 

 まず読んでいて、……というか読む前から思ったことなのですが、設定が非常に皮肉で決まっていて、いわゆる「この立てつけを思いついた時点で勝ち確」という作品なことには間違いないと思う。

 でもその勝ち確の試合をだれもが認める圧勝で終えている作品かと言われると、ちょっと違うような気もするんですよね。こういう作品にはやはり、このクソみたいな、うわべだけは取り繕っていてきれいだけど、反対側ではめちゃくちゃな、そんな世界の矛盾を暴いてくれるような、リアルな兵士の言葉とかを求めてしまうのだが、そういうことはなく、戦地でどんなことがあったかというのはにおわせるだけにとどめて、ずっとこの休暇の1日のことだけを書き続けるのである。

 

 そこはちょっと文学的なずるさがあるなと思ってしまう。本当にクソみたいな、文明社会のはずれを引いた側じゃなきゃかけないようなことは、小説の仕組み上、ということでオミットして、この作者や戦争に行っていない我々読者の側にあることだけを描いているんですよね。

 もちろんそれで戦略としては正しく、描かれなかったことまで十分に伝わるような作品になっている。

 

 ただこのつくりのうまさがね! 結局、作中のブラボー小隊たちは、自分たちを主人公にして売り出されようとする映画の、権利をどうするかで、巨大な娯楽産業の中のひとたちともめるんだけど、……それを描いているこの作品がかなりのところ娯楽産業の中で「うまくやったな」とされるようなうまい描き方で語られているのが、何とも言えない苦い味になっていると思うんですよね。

 実際に作中でも、とくに主人公のビリーは、自分を兵士として死地に押しやっている、文明国のシステム(このなかに娯楽産業もあり…)みたいなものにある程度同情的*1で、それといいパラレルになっているのではないでしょうか。

 

 我々に惨めな暮らしをさせているこの社会のことが、案外嫌いでもない。という感覚があるのが、ひと世代前のこの種の文学とは違う、新規性になっているのである。

 そしてこれに共感できる人は、けっこういると思うんですよね。その点で普遍性に達している、すばらしい作品だったと思います。おすすめです。

 

カメラのフラッシュが次々に焚かれ、これまで十九年間の経験の多くと同じように、これもとにかく切り抜けるべきものとなる。

 

*1:ビリーがビジネスについて質問し、意味の分からない言葉で返事が返ってきたけどそれでもそれについて、なにか大事なことなのだろうと考えを巡らせるシーンなど、胸が打たれた。