朝ドラ~チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『半分のぼった黄色い太陽』~

 

 オランナがまだ話し終えないうちから、オケオマは首を横に振りはじめた。「俺は兵士だよ」
「まだ書いてるの?」とオランナが訊いた。
 彼はふたたび首を振った。
「でも、私たちのための詩はあるのよね? 頭のなかに?」そう訊ねる声が、オランナの耳にさえ絶望的に響いた。

 

 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェさんというかたが書いた『半分のぼった黄色い太陽』という本を読んでいた。ビアフラ戦争が起きることとなる、1960年代のナイジェリアを舞台にした小説で、十代の使用人「ウグウ」、裕福なイボ人女性の「オランナ」、アフリカに取りつかれた物書き志望の白人男性「リチャード」の3名が語り手として登場するが、基本的にはオランナを中心とした物語である。

 

ベイビーがギザギザの金属片を二つ持ち帰ったとき、オランナはベイビーを怒鳴り、耳を引っ張り、金属片を取りあげた。ベイビーが人を殺す道具の冷たい残滓で遊んでいる、と思うと虫酸が走ったのだ。ところがカイネネは、ベイビーにそれを返してあげたらといった。カイネネは榴散弾の破片を入れる空き缶をベイビーにあたえ、彼女にこんなこともいった――トカゲを罠にかける大きな子たちの仲間に入れてもらったら?

 「こういうインパクトを読者に与えたいから、こういう仕掛けを組みこもう。ストーリーや人物造形はそこから逆算で作って、あ、そうだ、非現実的な要素やギャグ・このキャラとこのキャラのロマンスも盛り込んだら面白いかもしれない」、……といった感じで作られる小説もあるが、『半分のぼった黄色い太陽』はそういう感じではない。まず先に、ある時代を過ごした人々がいて、それが語られる。

 

 問題提起も解決もなく、作り物の伏線や作り物の盛り上がりどころもない。まあ、なくはないのだけど*1、それがこの作品の良いところの中心部分ではない。

 ある社会状況の中で、人々が生きていることの様子を描き、それを面白エピソードやキラキラ表現やフィクションの仕掛けといった変化球ではなく、ただ、その世界で起きたことを語る。語りが積み重なっていくごとに、読者と本のなかの世界に親しみというか、信頼関係というか、そんな感じの厚みが生まれて、それを楽しむ*2小説だと思う。雰囲気としては朝ドラに近い。

 

オランナは空を見た。青く澄んでいる。空を見て、いま起きていることが現実味をおびた。夢に空が出てきたことはなかったからだ。

 

 最近、クーリエ・ジャポンという雑誌のカズオ・イシグロ特集を読んで、そこでマーティン・エイミスサルマン・ラシュディといった同世代の「上手い」作家と対比する形でカズオ・イシグロの良さが語られているのを見て、そういうことなんだよな、と思ったことがあった。

 僕は伝統的にマーティン・エイミスサルマン・ラシュディ寄りの作品を「すげー!!」と好んで読んできた側だったのだけど、最近はちょっと考えが変わっていて、やっぱりカズオ・イシグロ寄り、……チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』もそのグループに属する作品なのだけど、じつはこっち寄りの作品ほうがいいなと思いはじめていたところだった。なので、今回の読書は自分の趣味史的にも大きなイベントになったのではないかという気がする。

 

 単純に絶対値でもとても良い小説なので、つぎ何を読むか迷っているんだったら、これでいいのではないでしょうか。おすすめです。

*1:作中に時系列どおりには語られない部分があって、それはちょっとサスペンスの効果を狙っているのかもしれない。

*2:内容は重いし、自分の人生に埋まっている罪悪感を掘り起こすような作品でもあるので、カジュアルな意味では楽しめない。