マルティン・ブーバーの『我と汝・対話』という本に以下のような記述があって、それがけっこう印象に残っている。
フェゴ島の原住民は、わずか七音節の単語で、〈両方の者が望んではいるが、しかし自分ができないことを相手がしてくれないだろうかと、期待しながら互いに見つめ合っている〉という精密な意味を表している。
『我と汝・対話』(植田重雄訳)岩波文庫 p.28
文明化されていない社会の言語においては、「われわれ(文明人)の分析的思惟をはるかに凌駕する表現」が行われている。それがどういうものなのかというと、私やあなたといった個々の対象の組み合わせでものごとを表現するのではなく、私もあなたもひっくるめた、生活のなかのひとまとまりの状況をひとまとまりの言葉で示すような表現である。
というような文脈において、その例示として、ブーバーはこのフエゴ島の原住民が持つ7音節の単語をあげている。
書全体の議論の流れは放っておくとして、この、〈両方の者が望んではいるが、しかし自分が(自分からは)できないことを相手がしてくれないだろうかと、期待しながら互いに見つめ合っている〉という状態、これはかなり良い状態ではないでしょうか?
飲み屋で楽しく飲んでたら終電1時間前くらいになってて、「どうする?」「どうするか?」「明日大丈夫?」「明日はなにもない」みたいな会話が交わされておたがいに様子をうかがっている。だが、どちらの頭にも夜遅くまで遊ぶ快楽がよぎっている。
でも実際につぎの場所へ移動することが決まってしまうと、まあそれはそれで楽しいんだけど、すでに楽しさのピークは過ぎてしまった感じがちょっとしてしまう。そんな経験はありませんか?
このフエゴ島の空気を感じたときは、僕は自分から誘いの口火を切るほうが好みで(この局面に限らず、誰でもいいけれど誰かがやったほうがいい、ということがある場合、僕はそれを自分から進んですることが多い。逆に自分が絶対にやらなきゃいけないことは怠けがちだが)、その結果、まれに誤発注してしまってすこし寂しい気分になったりする。どんな状況下でも誘いを断られるというのは多かれ少なかれショックなことだけど、それ以上に、さっきまで感じていたフエゴ島の空気が僕片方の勘違いだったという事実が余計につらい。
逆にいったんフエゴ島バイブスまで至ってしまえば、どちらかあるいは両方がチキったり、なんとなく話がまとまらなかったりで結局解散することになった場合でも、帰り道はわりと楽しかったりもする。やはりフエゴ島バイブスはそのあとの流れのためにあるものなのではなく、その瞬間の空気それだけで貴重で価値があるものなんじゃないか。
フエゴ島バイブス、非常に便利な概念だと思うのでぜひ日本語にも取り入れていきたいのだけど、ブーバーの「我と汝」のなかにはフエゴ島のこの7音節の単語について、これ以上の情報がない。ブーバーにとってはフエゴ島の先住民の7音節の単語は、単に自説を補強するための手段で、それ以上でも以下でもなかったのだと思われる。
せめてどういう発音の単語なのかだけでも知ってみたいので、もしこの記事を見ているひとのなかにフエゴ島の先住民の方がいたら、この7音節の単語について教えてくれるとうれしいです。