「おもしれー女」の現代文学~ジョナサン・フランゼン『ピュリティ』~

 

 「おもしれー女」というミームをご存知だろうか? あるところに、才能にも容姿にも家柄にも恵まれ、みんなの憧れの的となっている男の子がいるが、本人は自分の評判に惹かれて他人がつぎつぎ近づいてくることを半分うんざりに思っている。そのおなじところに、特別な資質を天から与えられたわけではないけれど、ひたむきで真面目で、たまに失敗はするけれど、それでも立ち直って、自分なりの価値観で物事を判断して行動することのできるまっすぐな女の子がいる。ふたりが出会う。男の子のほうは、こいつもお近づきになりたい勢だと思って、からかうような初絡みをする。女の子は「なんか嫌なやつ!」という直感に従って、彼を拒絶するような返事をする。去っていく女の子。残された男の子。こんなふうに俺を拒絶するやつなんて、はじめて見た。自分をなだめるように、彼はつぶやく。「おもしれー女」

 

 という少女漫画のあるあるパターンを表したひと言で、たしかにどこかで見たような気もする展開だが、実際に作品名を挙げろといわれるとそこまでぴったりなものは出てこない。しかし、「あるある感」と「実はない感」の同居が良いあるあるネタの重要なファクターだったりもする。

 

ピュリティ

ピュリティ

 

 現代アメリカ文学でもカースト最上位に君臨する神作家、ジョナサン・フランゼンの最新作『ピュリティ』も、そういう「おもしれー女」の物語である。主人公のピップは、スピリチュアルなシングルマザーのもとに生まれ、大学を卒業後、ギークハウスで異常者変わり者の同居人たちと暮らしながら、奨学金返済のため、そして、豊かでなくてもいいから、いまよりすこしだけましな暮らしをするために歩合制の電話営業の仕事をしている。

 その彼女を「おもしれー女」と評し、その魅力にひかれていくことになるのはアンドレアス・ヴォルフという東ドイツにルーツを持つ男性。ジュリアン・アサンジエドワード・スノーデンと並び称される天才リーカーで、その美名は世界じゅうにとどろいている。片方は応募するインターン生として、もう片方はその受け入れ人として、メールを交わすふたり。業務的な内容を業務的とはいえない挑発的な言葉で。ヴォルフはピップに惹かれるが、ピップは逆にヴォルフに反感を抱く。企業や軍の「秘密」をリークすることで名をあげてきた彼にも、だれにも話せない個人的な秘密があった。その一部をピップは彼から告げられることになる。ピップも秘密を話す。急速に、――物理的、そして精神的に、近づいていくふたりの距離。そしてボリビア*1のホテルで、――「命令して?」。すれちがい、だけど思いあうふたつの心の行方は……?

 

ピップはうなずいたが、この世界はなんて恐ろしいところだろうと考えていた。終わりのない力の奪い合い。秘密は力だ。お金も力。求められることも力。力、力、力。力を手に入れるのはこれほど孤独で耐えがたいことなのに、どうして世界じゅうで力の奪い合いをしているのだろう。

 上で記したことは一応嘘ではないが、この物語のすべてではない。ハードカバーで800ページをこえる大作で、物語の進展も早い。いろいろな出来事が起き、いろいろなテーマが扱われる。罪悪感を持ちながら悪をなすことと、自分が純粋・潔白*2 でいるために人を害することは、どちらがよりましなのか? 母親と子供との関係にはどれだけの加害性が含まれていて、そのうちどの部分が愛によって帳消しにされるのか? 自分の属する集団(金持ちであるとか、男であるとか)がもつ責任をどれだけ個人として引き受けるべきか? 自分の親しい人が信じている信念にどこまで自分は従うべきか? 関係性を続けることがお互いのためにならないと知っているが相手と関係を続けたいとき、関係を続けるべきか? 続けるべきではないとき、それでも相手に対してすべきことがあるとすればなにか?

 

ぼくはもうきみを求めていない。

 ジョナサン・フランゼンは現代文学の作家であるが、そのスタイルは難解さや前衛性とは無縁(無縁ではないが、まあ一応は)で、小説は、エピソードの面白さ、心理描写の切実さ、すこしずつ埋まっていくピースとそこから明らかになっていく人々たちのつながりの全体像、そしてなにより、ユーモア精神を駆動力としている。

 

「“二十の扉”ゲームをしないかと思ってね」

「いえ、けっこうです」

「わたしがきみに望むことを当ててみてくれ。質問にはイエスかノーでしか答えない。質問は二十回以内。いいか、イエスかノーで答えられる質問だけだぞ」

「セクハラで訴えられたいんですか」

イーゴーは愉快でたまらないといった様子で笑い声をあげた。「そりゃノーだ! さあ、あと十九回」

 始まりのシェアハウスのシーンはカウチでアイスを食べながら観るのがふさわしいようなホームドラマ感があるし、最後の部分では、小説はびっくりするくらいコメディーみたいな終わりかたをする。前二作でもそうだったけど、ジョナサン・フランゼンは相当なハッピーエンド主義者で、自分の作った人物たちを悲劇のなかに置き去りにしない。

 

わたしの人生でひとつ言えるのは、非難を受けるのを病的に恐れていたということだ。特に、女からの非難を。

 アメリカは心理学大国である。ジョナサン・フランゼンの前二作のうち(とはいってもいま思い出すと内容をほとんど覚えていない)、『コレクションズ』がパラノイアを、『フリーダム』が鬱病を描いたものであったとすれば、『ピュリティ』は依存、関係性の病、人間関係嗜癖、といった心の問題を正面から扱っている作品として位置づけられるような気がする。

 パラノイアメランコリアから、関係性へ。ひとりの作家の深化の歩みとしては納得がいくもののように思える。

 

オークランドのピュリティ

悪趣味共和国

トゥー・マッチ・インフォメーション

月光酪農場

[le1o9n8a0rd]

殺人者

雨が来る

 最後に、ジョナサン・フランゼンの章題の付け方について述べて締めくくりたい。フランゼンはなんというか、印象的なんだけど統一感のない章題をつけることが多くて、ずっと面白いなと思っていた。

 今回でとくに素晴らしかったのは[le1o9n8a0rd]と題された章の題。字面を見てすこし考えるとこの文字列がなんなのか(どういうときに使うものなのか)想像がつくとは思うが、この文字列そのものが本編に出てくるのはそのつぎの章であり、物語に大きくかかわるのはさらにそのつぎの章である。

 また、文字列の中に隠されているひとつの単語とひとつの数字(年号)がどのように物語に関わりがあるのか。なぜこの単語と年号が選ばれたのか。章題を眺めているだけで、読んで答え合わせをしたくなるようないくつもの疑問が浮かんでくるようになっている。物語のいろいろな要素にいろいろなレイヤで深くタイトルが関わる。こういう些細なところまで非常に上手なのがジョナサン・フランゼンの心憎いところである。

*1:二日連続でボリビアが登場するエントリを書くとは思わなかった

*2:どちらもピュリティPurityの訳語となりうる