フエゴ島の7音節の単語

 

 マルティン・ブーバーの『我と汝・対話』という本に以下のような記述があって、それがけっこう印象に残っている。

 

フェゴ島の原住民は、わずか七音節の単語で、〈両方の者が望んではいるが、しかし自分ができないことを相手がしてくれないだろうかと、期待しながら互いに見つめ合っている〉という精密な意味を表している。

『我と汝・対話』(植田重雄訳)岩波文庫 p.28

  文明化されていない社会の言語においては、「われわれ(文明人)の分析的思惟をはるかに凌駕する表現」が行われている。それがどういうものなのかというと、私やあなたといった個々の対象の組み合わせでものごとを表現するのではなく、私もあなたもひっくるめた、生活のなかのひとまとまりの状況をひとまとまりの言葉で示すような表現である。

 というような文脈において、その例示として、ブーバーはこのフエゴ島の原住民が持つ7音節の単語をあげている。

 

 書全体の議論の流れは放っておくとして、この、〈両方の者が望んではいるが、しかし自分が(自分からは)できないことを相手がしてくれないだろうかと、期待しながら互いに見つめ合っている〉という状態、これはかなり良い状態ではないでしょうか?

 飲み屋で楽しく飲んでたら終電1時間前くらいになってて、「どうする?」「どうするか?」「明日大丈夫?」「明日はなにもない」みたいな会話が交わされておたがいに様子をうかがっている。だが、どちらの頭にも夜遅くまで遊ぶ快楽がよぎっている。

 でも実際につぎの場所へ移動することが決まってしまうと、まあそれはそれで楽しいんだけど、すでに楽しさのピークは過ぎてしまった感じがちょっとしてしまう。そんな経験はありませんか?

 

 このフエゴ島の空気を感じたときは、僕は自分から誘いの口火を切るほうが好みで(この局面に限らず、誰でもいいけれど誰かがやったほうがいい、ということがある場合、僕はそれを自分から進んですることが多い。逆に自分が絶対にやらなきゃいけないことは怠けがちだが)、その結果、まれに誤発注してしまってすこし寂しい気分になったりする。どんな状況下でも誘いを断られるというのは多かれ少なかれショックなことだけど、それ以上に、さっきまで感じていたフエゴ島の空気が僕片方の勘違いだったという事実が余計につらい。

 

 逆にいったんフエゴ島バイブスまで至ってしまえば、どちらかあるいは両方がチキったり、なんとなく話がまとまらなかったりで結局解散することになった場合でも、帰り道はわりと楽しかったりもする。やはりフエゴ島バイブスはそのあとの流れのためにあるものなのではなく、その瞬間の空気それだけで貴重で価値があるものなんじゃないか。

 

 フエゴ島バイブス、非常に便利な概念だと思うのでぜひ日本語にも取り入れていきたいのだけど、ブーバーの「我と汝」のなかにはフエゴ島のこの7音節の単語について、これ以上の情報がない。ブーバーにとってはフエゴ島の先住民の7音節の単語は、単に自説を補強するための手段で、それ以上でも以下でもなかったのだと思われる。

 せめてどういう発音の単語なのかだけでも知ってみたいので、もしこの記事を見ているひとのなかにフエゴ島の先住民の方がいたら、この7音節の単語について教えてくれるとうれしいです。

I'm Thinking Miku, Miku~Anamanaguchiのオタク・ミュージックをご存知か?~

 

 僕自身も立派なオタクではあるが、自分が立派なオタクに成長する以前からずっとオタクが大好きだった。オタクの先人たちの背中に憧れて自分もオタクを目指したといっても過言ではない。

 

 オタクが大好きなので、当然、オタクが作っているオタク・ミュージックも大好きである。そのなかから今日はAnamanaguchiというバンドを紹介する。ニューヨーク出身の4人組で、ギターやベースといった楽器のほかにNESゲームボーイの音源を前面に押しだしたポップミュージックをリリースしている。

 

 Wikipediaによれば、本人たちは1980年代の日本のゲーム音楽のほかにも、中田ヤスタカ渋谷系の音楽に影響を受けたと語っている。上に貼ったビデオにもいくつかの偽日本語が登場する。

 

f:id:kageboushi99m2:20190624211408p:plain

f:id:kageboushi99m2:20190624211439p:plain

 ほかにも、「モニトハニカスチソイスト」「シチスノ モララミ キラカクニソト」「ジュース・ブレイク」といったコクの深い偽日本語が登場はするものの、映像全体のテイストはアメリカのティーン向け量産映画のそれであり、文化のマッシュアップの度合いは激しい。

 

 そのAnamanaguchiが初音ミクとコラボした、その名も「Miku」という曲がある。YouTubeでは600万回再生されているが、あまり日本語圏での知名度は高くないようである。

 

f:id:kageboushi99m2:20190624213432p:plain

 MVの始まりに無音のなかで提示される題辞がかなりかっこいい。初音ミク(訳:未来からの初めての音)はヴァーチャル・ポップ・スターである。彼女が私たちの世界にやってきた、そして同時に、私たちもみな彼女の世界に引き込まれたのである。

 

 暗い部屋のなかに仄かに輝くDTMバイスの液晶光。耳に残るフレーズのリフレインと、「うーいーうー」という機械的スキャット。日本のオタクのツボというか美意識の要点をしっかりとなぞった仕上がりになっていて、海外の音楽というよりはティーンのころに慣れ親しんだ音楽という印象を受ける。「Blue hair, blue tie, hiding in your wi-fi.」という英語ならではの押韻が効いたリリックもとても良い。

 

 オタク・ミュージックとは言っても鳴らしている音にはとくに根暗なところはなく、わりと明るめな曲が多いなかで、この「Miku」にはちょっと湿った、ナードな感傷が乗せられていて、その方面もちゃんとこなせるところはすごいと言うしかない。

 

 2004年結成で2019年現在も元気に活動しているというので、意外に息の長いバンドである。ただ、リリースは2016年の「Miku」を最後に止まっている。

 

アフリカネイションズカップ エジプトvsジンバブエ

 

 コパ・アメリカはグループステージの最終節に突入したが、その裏ではエジプトでアフリカネイションズカップが6/22(日本時間)から開幕している。アフリカネイションズカップとはなにかというと、アフリカサッカー連盟に加入している国々で争われるミニワールドカップのようなものである。ぱっと見た感じ西サハラ以外のアフリカの国はすべて加盟しているようだ。

 

 Wikipediaの「アフリカネイションズカップ」の項によると、第一回大会の模様は以下のような感じだったらしい。

 

1957年に第1回スーダン大会が開催されたが、大会にエントリーしたのはエチオピア、エジプト、南アフリカスーダンのわずか4カ国だけで、このうち南アフリカは当時のアパルトヘイト政策により人種混成チームの派遣を拒否したため(全員黒人か全員白人どちらかのチームの派遣を主張)、CAFから出場停止にされた(後にCAFから南アフリカは除名された)。最終的に3カ国で大会を実施し、エジプトが決勝でエチオピアを4対0で下し、初代王者となった。

  前途多難なはじまりかたをしているが、めでたく今年は32回目の開催となる。出場チーム数は24。グループステージで16チームに絞られ、そのあとは7月15日から決勝トーナメントを戦う。全試合ではないが有力国の試合はDAZNが配信してくれている。

 

 その開幕戦、開催国エジプトとジンバブエの試合を見た。始まりから両チーム、ディフェンスラインのパス回しをミスしあうという落ち着かない入りになった。試合の主導権を握るのはモハメド・サラーがいるエジプトだった。プレミアリーグ得点王となった凶速FWの暴力で一方的なゲームに……、と思いきやサラーがまったく守備をしないのでジンバブエもサラーがいる(というかいない)サイドから攻撃のチャンスを作ることができていた。

 サラーのいる(というかいない)相手サイドを起点にして、マイボール時にはすばやく前にボールを運べていたジンバブエに対して、エジプトはディフェンスラインからのビルドアップに多少問題を抱えているように見えた。序盤のボール前進はサラーへのロングボールか、サラーがおりてきて運ぶかの二択だった。

 両チームとも2列目の守備がマークの受け渡しがあやしく、ボールが出た人に寄せていくという感じだったので、攻める側はパス&ゴーでシンプルに最終ラインに前を向いて勝負することができていた。そういう即興的な攻撃が上手なのはエジプトのほうだった。その形からエジプトは(なぜかトレゼゲという名前ということでW杯でも話題になった)トレゼゲの美しいゴールで先制。途中からサラーがトップに移って、ジンバブエは享受していた敵陣の根拠地を失い、そのまま1-0で試合は終了。

 

 ジンバブエで印象に残ったのはGKのエドモア・シバンダ選手。南アメリカのWitbank Spurs F.C.というクラブでプレーしているらしい。全体的に安定感のあるプレーをしてたけど、キック力がすごくて、とくにチャンスになっていたわけではなかったけどものすごい威力のキックを敵陣に飛ばしていた。一度などクリアをエジプトペナルティエリア内でおおきくバウンドさせ、相手センターバックは(冷静に考えるとそのまま流せばいいのだが)混乱して後ろ向きにクリアしていた。

 あと、試合開始すぐにプレッシャーをかけられたシーン。前から相手が来てるのに思いっきりライナー性のボールを正面に蹴っていたのは男らしかった。たぶん、相手FWにあたってもそのFWごと敵陣に吹き飛ばせるという自信があったのだろう。負傷で交代してしまったのが残念だった。軽傷であることを祈る。

『帰れない山』

 

帰れない山 (新潮クレスト・ブックス)

帰れない山 (新潮クレスト・ブックス)

 

 

街の少年と山の少年 二人の人生があの山で再び交錯する。山がすべてを教えてくれた。牛飼い少年との出会い、冒険、父の孤独と遺志、心地よい沈黙と信頼、友との別れ――。北イタリア、モンテ・ローザ山麓を舞台に、本当の居場所を求めて彷徨う二人の男の葛藤と友情を描く。イタリア文学の最高峰「ストレーガ賞」を受賞し、世界39言語に翻訳された国際的ベストセラー。

  アマゾンの商品ページから内容紹介を引用した。このレーベル(新潮クレスト・ブックス)から出ている他の本とおなじように、背表紙カバーや、カバー袖に外国紙や日本の評論家の手による紹介文が載っているが、どれもこの内容紹介とおなじようにふわっとしていてつかみにくい。

 僕も「いまいち惹かれないな~笑」と思いながら手に取ったのだが、その回は「いまいち惹かれない本を読もう!」という個人的なキャンペーンの回だった。キャンペーンがあるとはいえ惹かれないことに変わりはないので、手元でずっと放置していたが、ここに来てようやく読むことにした。最近サバイバルものにはまってて『世界のどこでも生き残る 異常気象サバイバル術』という本を読んだばかりだった。サバイバルに役に立つ小ネタとかを知ってたら話のネタになって面白いんじゃないか? という軽い気持ちで手に取った本なのだけど、内容は「災害セットをしっかりと準備しよう」「家族で災害時の行動について話しあおう」などといった非常にまっとうでだからこそなかなかできない、耳が痛い真面目な防災本だったので自分の軽い気持ちを反省した。

 

 ブルーノとピエトロ、そしてピエトロの父親という三人の男の物語である。第一部は少年時代。語り手はピエトロで、ミラノからグラーナという山村にやってきてそこで牛追いをしていたブルーノと仲良くなる。ブルーノはピエトロの家族同然となり、ピエトロパパ、ブルーノ、ピエトロの三人で氷河を横断する。第二部は青年時代前半、ピエトロは父からグラーナ村の山の土地を相続し、山に残って暮らしていたブルーノといっしょに手作業でそこに家を建てる。第三部は青年時代後半。ブルーノは伯父が放棄した高原牧場を買い戻し、経営に奮闘するがやがて立ち行かなくなり破産する。持ち物を失ったブルーノとピエトロは手作業で立てた小屋で冬の日々を過ごす。

 

 というのがおおまかなあらすじ。ほかにもいくつかおおきなイベントは起きるが、ドラマを求めて読むようなものではない。時間がゆっくりと、容赦なく経過し物事が遷移していく、その遅さを楽しむ小説である。ぱっと読んでわかる特徴があまりないので、売り文句を作るのは相当大変だったと思われるが、その程度の理由で埋もれるのはもったいない作品だった。

 

 小説において遅さはしばしば退屈さと見分けがつかないものになるが、『帰れない山』ではすくなくともふたつの美点が、退屈だという評価から自身を遠ざけている。

 ひとつがそれぞれのエピソードの描かれかた。山で生きることを好む、あるいは山でしか生きられない人間の、日々の生活の作業を描いているという感じ。自給自足生活へ密着する落ち着いたドキュメンタリーを見ているときとおなじ満足感がある。書きかたとしては、特別美辞麗句を重ねているというわけではないのだけど、かわりに、自分の書いていること(山での暮らしやそのなかで触れるもの)についてしっかりとした実感つきのビジョンを持っていて、それを正確に描くことに成功している。その人の書いているものに対するコミットメントの深さをうかがえるような文章はやっぱり読んでいて心地がいい。

 もうひとつは、物語の最後のエピソード(詳細はネタバレになるので省くが)。ドラマティックではなく、淡白に描かれている物語全体のトーンが最後のエピソードにひとつの効果をもたらしている。短くて遅い物語はなかなか終わらせかたが難しいと思うんだけど、その効果もあってかきれいな終わりかたになっている。

 

 さらにもう一点。ヨーロッパ文芸フェスティバル2018で行われたこちらのインタビューで、作者自身によってこの作品は「男性ジェンダー」についての物語でもあることが示唆されている。

 たしかに、言われてみればそれはそうな気もしていて、この物語は外観上は、クラシカルな「男vs自然」の類型を持っているんだけど、ただクラシカルなわけではなく、逆にあるていどジェンダーについての問題意識をもっている人が、一周まわって類型的な「男」のお話を書いているような感触があるのはちょっとわかる。

キクラデス文明のここがすごい!

 

 あなたのいちばん好きな文明はなんですか? 僕がいちばん好きな文明はキクラデス文明である。

 

ja.wikipedia.org

 

 キクラゲをモチーフにしたポケモンの最終進化形(くさ/ゴースト、最終進化形だけにゴーストタイプがついてくる)のような名前をしているが、実際にはるか昔のギリシャに存在した文明である。

 

キクラデス文明(キクラデスぶんめい;Cycladic civilization)とは、新石器時代から青銅器時代初期にエーゲ海のキクラデス諸島に栄えた文明で、エーゲ文明に含められる。年代は紀元前3000年頃から2000年頃にわたり、これはクレタ島のミノア文明よりも前に当たる。 (Wikipediaより)

  キクラデス諸島というのがどこかというと、クラシック音楽で有名なナクソス島がある場所である。紀元前3000年~2000年というのは標準的な世界史の教科書でギリシャが扱われ始めるよりも前の時代であり、ある程度勉強を頑張っていた人でもほとんど知らない文明だと思われる。しかし、この文明を知らないままにしておくのはもったいない。キクラデス文明はとてもキュートな文明だから。なにがキュートかというと、その美術作品が。

 

www.google.com

 「キクラデス美術」で検索した結果が上記のリンクである。見ているだけでわくわくしませんか? 基本的には人間の姿をかたどった像ばかりが出土しているようだが、その、省略と強調のしかた。完全な平面として捉えられた顔に、鼻のでっぱりだけがポツンと浮かんでいる。

 

f:id:kageboushi99m2:20190620230834j:plain

キクラデス文明 - Wikipedia

 

 これが僕のいちばんお気に入りのキクラデス彫刻である。あまりにも好きすぎて一時期LINEアイコンにしていた。そしてみんなに気味悪がられていた。僕に美術的素養はないので、像を評価する基準を「GANTZに登場した場合倒したら何点になるか?」ひとつしか持っていないのだけど、この像は右から28点+15点+28点くらいだと思う。見た目の禍々しさに対してそこまで点数が伸びないのはサイズの問題がある。

 

 ããã«ã¾ã³ã¡ãã¿ with bãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ

 モデルはブルゾンちえみ with Bではないかと思っているが、残念ながら表情は極度に抽象化して表現されているので確証はもてない。あとキクラデス文明の最盛期はブルゾンちえみ with Bの活動時期と重なっていないのでそこも悩みどころ。

 

 ほかにも「キクラデスのフライパン」という作品も有名らしい。フライパンと呼ばれてはいるが実際の使用目的は不明だそうだ。

 

Frying pan (NAMA 4974) - Wikipedia

 

 個人的にはこれも家に欲しい。椅子の背もたれとかにちょうど良いのではないか。

 

自分の大喜利に点数をつける 2

 

 続きをします。

 

 我々の社会では(建前はおいておくとしても)、子供はやはり大人より一段階低い位置に置かれていて、であるからして守られるべきもので、大人の考える子供の像に収まる存在であることを期待されている。そういう子供が、まさに大人に守られなければいけないとされるその瞬間、大人の想定する欲望を越えるという形で抵抗する。そこには皮肉と批評がある。

 しっかりとした思想的なバックボーンを持ち、お題とも調和した良い回答ではあるが、笑いとしての出力はそこまででもないので70点くらいかな。

 

 僕の穴埋め大喜利で一番いいねされたのがこれだと思う。が、個人的な好き度はそこまで高いわけでもない。まずこの回答は、一般的な常識の範囲には入ってないとある物事を知っているかどうか目くばせをするような性質があり、踏み絵をしているようなもので、知っているひとはたいして面白くなくてもなんとなく、「これ知ってるよ」ということを自分で再確認するような気持ちでいいねを押したくなってしまう傾向がある、と思う。

 その要素を抜き去ると、この回答が面白いかどうかを判断できる観点は、「哲学的ゾンビ」とこの「前田さん」、そして「怒ったり泣いたりする」というリード文の取り合わせが是か非かである。そこだけを考えると、70点くらいかな。良い当たりをしているのは間違いないんだけど、それをスタンドに飛ばすとびぬけたものはもっていないように思える。

 

 まずは良いところから、俗世との兼ね合いをぎりぎりまで迷ったボーダーの参加者たちが、迷いの末に二次会に参加する様子と北斗の拳の重ね合わせは悪くないと思う。まわりの風景が荒廃しているのも、明日の計画や継続的な体調管理がめちゃくちゃになるメタファーとして捉えることができる。そんな悲壮感漂う状態で、表情は凛々しいのが覚悟の表現として素晴らしい。

 だめなのは二次会というモチーフの陳腐さである。この手のボケはどうしてもこの偉大な先駆者と比較されてしまう。45点。

 

f:id:kageboushi99m2:20190614003010p:plain
https://bokete.jp/boke/1800356

 

 目の前に切り身がある状況でこれを言われたら怖い。寿司という食べ物が孕む本質的な恐怖と悲しみについて僕はこれまで何度も考察していた。

 

 ボケとしては60点くらいだけど、個人的には好きなので5点足して65点です。

「おもしれー女」の現代文学~ジョナサン・フランゼン『ピュリティ』~

 

 「おもしれー女」というミームをご存知だろうか? あるところに、才能にも容姿にも家柄にも恵まれ、みんなの憧れの的となっている男の子がいるが、本人は自分の評判に惹かれて他人がつぎつぎ近づいてくることを半分うんざりに思っている。そのおなじところに、特別な資質を天から与えられたわけではないけれど、ひたむきで真面目で、たまに失敗はするけれど、それでも立ち直って、自分なりの価値観で物事を判断して行動することのできるまっすぐな女の子がいる。ふたりが出会う。男の子のほうは、こいつもお近づきになりたい勢だと思って、からかうような初絡みをする。女の子は「なんか嫌なやつ!」という直感に従って、彼を拒絶するような返事をする。去っていく女の子。残された男の子。こんなふうに俺を拒絶するやつなんて、はじめて見た。自分をなだめるように、彼はつぶやく。「おもしれー女」

 

 という少女漫画のあるあるパターンを表したひと言で、たしかにどこかで見たような気もする展開だが、実際に作品名を挙げろといわれるとそこまでぴったりなものは出てこない。しかし、「あるある感」と「実はない感」の同居が良いあるあるネタの重要なファクターだったりもする。

 

ピュリティ

ピュリティ

 

 現代アメリカ文学でもカースト最上位に君臨する神作家、ジョナサン・フランゼンの最新作『ピュリティ』も、そういう「おもしれー女」の物語である。主人公のピップは、スピリチュアルなシングルマザーのもとに生まれ、大学を卒業後、ギークハウスで異常者変わり者の同居人たちと暮らしながら、奨学金返済のため、そして、豊かでなくてもいいから、いまよりすこしだけましな暮らしをするために歩合制の電話営業の仕事をしている。

 その彼女を「おもしれー女」と評し、その魅力にひかれていくことになるのはアンドレアス・ヴォルフという東ドイツにルーツを持つ男性。ジュリアン・アサンジエドワード・スノーデンと並び称される天才リーカーで、その美名は世界じゅうにとどろいている。片方は応募するインターン生として、もう片方はその受け入れ人として、メールを交わすふたり。業務的な内容を業務的とはいえない挑発的な言葉で。ヴォルフはピップに惹かれるが、ピップは逆にヴォルフに反感を抱く。企業や軍の「秘密」をリークすることで名をあげてきた彼にも、だれにも話せない個人的な秘密があった。その一部をピップは彼から告げられることになる。ピップも秘密を話す。急速に、――物理的、そして精神的に、近づいていくふたりの距離。そしてボリビア*1のホテルで、――「命令して?」。すれちがい、だけど思いあうふたつの心の行方は……?

 

ピップはうなずいたが、この世界はなんて恐ろしいところだろうと考えていた。終わりのない力の奪い合い。秘密は力だ。お金も力。求められることも力。力、力、力。力を手に入れるのはこれほど孤独で耐えがたいことなのに、どうして世界じゅうで力の奪い合いをしているのだろう。

 上で記したことは一応嘘ではないが、この物語のすべてではない。ハードカバーで800ページをこえる大作で、物語の進展も早い。いろいろな出来事が起き、いろいろなテーマが扱われる。罪悪感を持ちながら悪をなすことと、自分が純粋・潔白*2 でいるために人を害することは、どちらがよりましなのか? 母親と子供との関係にはどれだけの加害性が含まれていて、そのうちどの部分が愛によって帳消しにされるのか? 自分の属する集団(金持ちであるとか、男であるとか)がもつ責任をどれだけ個人として引き受けるべきか? 自分の親しい人が信じている信念にどこまで自分は従うべきか? 関係性を続けることがお互いのためにならないと知っているが相手と関係を続けたいとき、関係を続けるべきか? 続けるべきではないとき、それでも相手に対してすべきことがあるとすればなにか?

 

ぼくはもうきみを求めていない。

 ジョナサン・フランゼンは現代文学の作家であるが、そのスタイルは難解さや前衛性とは無縁(無縁ではないが、まあ一応は)で、小説は、エピソードの面白さ、心理描写の切実さ、すこしずつ埋まっていくピースとそこから明らかになっていく人々たちのつながりの全体像、そしてなにより、ユーモア精神を駆動力としている。

 

「“二十の扉”ゲームをしないかと思ってね」

「いえ、けっこうです」

「わたしがきみに望むことを当ててみてくれ。質問にはイエスかノーでしか答えない。質問は二十回以内。いいか、イエスかノーで答えられる質問だけだぞ」

「セクハラで訴えられたいんですか」

イーゴーは愉快でたまらないといった様子で笑い声をあげた。「そりゃノーだ! さあ、あと十九回」

 始まりのシェアハウスのシーンはカウチでアイスを食べながら観るのがふさわしいようなホームドラマ感があるし、最後の部分では、小説はびっくりするくらいコメディーみたいな終わりかたをする。前二作でもそうだったけど、ジョナサン・フランゼンは相当なハッピーエンド主義者で、自分の作った人物たちを悲劇のなかに置き去りにしない。

 

わたしの人生でひとつ言えるのは、非難を受けるのを病的に恐れていたということだ。特に、女からの非難を。

 アメリカは心理学大国である。ジョナサン・フランゼンの前二作のうち(とはいってもいま思い出すと内容をほとんど覚えていない)、『コレクションズ』がパラノイアを、『フリーダム』が鬱病を描いたものであったとすれば、『ピュリティ』は依存、関係性の病、人間関係嗜癖、といった心の問題を正面から扱っている作品として位置づけられるような気がする。

 パラノイアメランコリアから、関係性へ。ひとりの作家の深化の歩みとしては納得がいくもののように思える。

 

オークランドのピュリティ

悪趣味共和国

トゥー・マッチ・インフォメーション

月光酪農場

[le1o9n8a0rd]

殺人者

雨が来る

 最後に、ジョナサン・フランゼンの章題の付け方について述べて締めくくりたい。フランゼンはなんというか、印象的なんだけど統一感のない章題をつけることが多くて、ずっと面白いなと思っていた。

 今回でとくに素晴らしかったのは[le1o9n8a0rd]と題された章の題。字面を見てすこし考えるとこの文字列がなんなのか(どういうときに使うものなのか)想像がつくとは思うが、この文字列そのものが本編に出てくるのはそのつぎの章であり、物語に大きくかかわるのはさらにそのつぎの章である。

 また、文字列の中に隠されているひとつの単語とひとつの数字(年号)がどのように物語に関わりがあるのか。なぜこの単語と年号が選ばれたのか。章題を眺めているだけで、読んで答え合わせをしたくなるようないくつもの疑問が浮かんでくるようになっている。物語のいろいろな要素にいろいろなレイヤで深くタイトルが関わる。こういう些細なところまで非常に上手なのがジョナサン・フランゼンの心憎いところである。

*1:二日連続でボリビアが登場するエントリを書くとは思わなかった

*2:どちらもピュリティPurityの訳語となりうる