ASMR~「家族ゲーム」~

 

家じゅうが、ピリピリ鳴ってて、すごくうるさいんだ

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 1983年6月4日*1に公開された映画、「家族ゲーム」を見ていた。なんとなくどこかで見かけて、雰囲気とあらすじに興味を惹かれていたけれど、とくに見ることはなく、ウォッチリストの深いところに眠っていた映画だった。

 

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 とても面白かった。ちょっと高尚で芸術的だけど、カットのひとつひとつが面白いのと、あと笑えるところもけっこうあるので、ギリ不特定多数にすすめられる映画だ。「家庭教師と生徒のあいだ、そして主人公の少年と彼の仇敵のあいだにある、ちょっとしたブロマンス描写」「家庭内暴力シーン」「兄ちゃんのわけわからん色気」といったポップス要素のどれかひとつでも欠けていたら、上級者向けの映画になっていたのではないか。

 

 監督は森田芳光さんという人で、主演は松田優作さんという人。日本の映画界でも非常に評価されている作品らしく、アマゾンや他のインターネットには絶賛のコメントが並ぶ。見ていていろいろ思うところもあったのだけど、ぱっと見で思うことはほとんどどこかのレビューに書かれていた。いちおう、何か所か、とくに面白かった部分について述べるのだけど、どこか別のところにも書かれているところです。独自性は出せなかった。ごめんね。

 

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 まずびっくりするのが家族団らんの食事のシーン。ちょっと趣向を変えてオープニングの登場人物紹介シーンから、最後のオチまでよく使われるカットなんだけど、大嘘すぎてびっくりした。こんな全員で正面を向いて食事する家庭ありますか!?

 

 「最後の晩餐」を意識したのかなともちょっと思ったけど、それにしてはそれを補足する文脈が特に見当たらない。ほかにも、撮影セットを意識させるようなカメラワーク(机を透明化して下から写したり、セットの外をまたいだカメラ移動があったり)もあるので、セットの上の虚構であることを前提にしたうえで別種のリアリティの上でやっていきますよ、といったやりかたなのかなと思った。セリフも演劇っぽくてだいぶ変だしね。

 

 あとは音楽の使いかた。……どこかで見落としている可能性はあるけれど、一回見た限りでは作中でまったくBGMが流れない。話の流れでレコードをかけるときにも流さなかったの「マジでやってるな」と思った。し、これエンドロールではではさすがに流すのかな、と興味を持って見ていたら、まさかの処理を見せて流さなかった! ……し、「エンドロールを音楽を流さずに切り抜ける方法」ふつうにかっこよかったのでふつうの映画で取り入れてもぜんぜんよさそうだった。

 

 音楽がないかわりに、……かわりにでいいのかな、とにかく全編にわたって咀嚼音がすごい。咀嚼音に関しては最初からぶち込んできている*2ので、ASMR好きな人はきっとハマると思います。

*1:ちょうど僕の生まれたのとまったくおなじ日である。

*2:僕は咀嚼音けっこう苦手で、最初の最初から目玉焼きの黄身だけをすする音を聞かされたときは気持ち悪すぎて再生停止しようかと思った。でも作品のクオリティを考えるとそこで止めないで良かった。

参加することはダサいと思っていた

 

 この記事がとても面白かった。「ダンスとは流れてくる曲から自由に音を選んで、自由に身体の動かし方を選んでいく遊びです。つまり、世界一自由な音ゲーなんです!」というところから始まり、音楽に合わせて制作された映像も、映像というメディアを使って「音に合わせて」動いていると広くとらえればダンスとみなせる、ということを言う。

 ダンスは体の動きを通じて、音ゲーはゲームシステムとの相互作用を通じて、MVは映像で、それぞれ音楽に参加する営み、……とてもわかるし、実用的な*1整理であると思った。

 

 さて、音楽にはただじっと鑑賞することと、参加することのふたつの楽しみかたがある。

 

 個人的にはクラブで踊ったり、バンド仲間とセッションしたり、カラオケで歌うよりも、コンサート会場やパソコンの前でじっと座って音楽を聴いているのが好きだし、ダンスミュージックやヒップホップ、ワルツといった身体性をからめたジャンルより、交響曲オルタナ、ポップスなど、ただ聞いていればいいジャンルのほうがあきらかに好きだった。このふたつのあいだには区別があるように思える。

 

 世界的に見ても、音楽は参加するものであるのとおなじくらい、聞き入るものでもあるように思う。村の祭りの日に太鼓をたたいてパイプをふいてフィドルを弾いて踊るのが音楽の原型だよと言われればそうかもしれないが、とくに限定せず「クラシック」と呼ばれている西洋の音楽は鳴っているあいだ聴衆に黙って座ることを要求し、とくに疑問視されていない。西洋とそれ以外、という対比が成り立ちそうにも見えるけれど、雅楽とかも参加を前提としていない音楽のように見えるので単純ではなさそう。

 

 「参加」と「鑑賞」というふたつの枠組みがあって、そのあいだのどこかに実践があるようである。学校の音楽の授業では時間を区切って両方をやっている先生が多いと思うし、どちらかといえばカラオケで歌いたい曲、どちらかといえばプロが歌っているのを聞きたい曲というのがあるように思える。ダンスの要素を取り入れたプログレ、クラシックなフレーズを引用したヒップホップがふつうにある。熱狂的なファンたちは演奏が聞こえなくなるくらいの歓声をステージ上のビートルズに送ったし、その騒音を聞いてビートルズは「二度とライブはしない。レコーディングだけしよう」と決意した。

 ただ、両立するというよりは、このふたつの枠組みは対立しあっていることのほうが多い気がする。踊りつつ曲をしっかり味わって聞くということはできないように思うし(たぶん、曲を解釈してどう踊るか決める時間というのが別個にあるのではないかと思う)、ヘッドフォンをつけて聞き入っていると、頭を揺らしたり指でリズムをとる程度のことさえ不純物のように思える。

 

 個人的にはなにか動いているよりはじっとしているのが好きなので、音楽ともじっとしながら関わってしまうのだけど、最初に挙げた記事で「音楽に参加」するさまざまな営みが「音に合わせること、ダンス」という切り口できれいにまとまったので、「じっと音楽に聞き入ること」がなんなのか、音楽にとってどれくらい重要なのかよくわからなくなっている。そんな暗い聞きかたはやめて、もっと音楽に、参加したほうがいいのではないか。

 

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 たとえば、聞きながら頭のなかで抽象的なビジュアル(iTunesにあった「ビジュアライザ」機能みたいな」)を思い浮かべているよ!っていうひとだったら、「ダンス」の文脈で説明できないこともないと思うが、……すくなくとも僕はそうしていないし、そういうひとはいても少数派かも。

 たぶんだけど、「鑑賞」というのはテクストを読むのとおなじようなしかたで音楽を享受することだと思う*2のだけど、それがどれほど音楽にとって重要なのかは謎のままだ。やっぱり参加したほうがいいかも

 

 最近個人的に作っていた、参加したほうがいいかもしれないものリスト*3に新しいものが加わった。みなさんも、どんどん参加したほうがいいものを探して、参加していきましょうね。

*1:たとえば、「ラップとかも音楽に合わせた発話ということでダンスだとみなせるのかもしれないなあ」と思って、これまでラップの音楽性がまったくわかっていなかったことの説明らしきものを見つけることができた。

*2:クラシックだと楽譜を読むこと、曲の展開を理解したり和声の構造を把握することが重視されるし、オルタナとかポップスだと、曲に個人的な思い入れを乗せたり歌詞を解釈したりすること、そして両者に共通することだけど、曲に表現されているなにものかを探し当てること、といったことが音楽をインプットすることになる、と信じて実践しているひとが多くいるように思う。

*3:「地域社会」「政治」などが入っていた。

今夜聞いた曲♪♪♪♪♪♪♪♪♪

 

 弟と会ってお酒を飲んだときに、「冷静に考えて俺の音楽の趣味のはじまり全部お前だからな」と言われたのが、まあ普通程度にコミュニケーションのある兄弟の間ではありがちな事態ではあるけれど、ちょっとうれしかったし感じ入るものがあった。

 

1.I'm Only Sleeping - The Beatles

2.Everyone Hides - Wilco

3.Slow - black midi

 Black MIDIはバンド名の由来がけっこう面白かった。

 

ブラック・ミディ(表記は小文字で〈black midi〉)というバンド名の由来は、2000年代末、日本のインターネットの深部で突発的に生まれた音楽ジャンル〈Black MIDI〉だ。〈黒楽譜〉とも呼ばれるBlack MIDIの音楽は、読んで字のごとく楽譜やMIDIファイルが大量の音符で真っ黒く埋め尽くされている。

ブラック・ミディ(black midi)『Schlagenheim』と日本文化の奇妙でイビツな親和性 - MIKIKI

 

4.Slow Dance II -Nakid Giants

5.NIJIIRO DARKNESS - スーパーカー

6.Dead Fox  - Courtney Barnett

7.Assisted Harakiri - Home Is Where

 こう、曲のタイトルなどで単語の頭文字を大文字にして表記するときには、「文字数3以下の前置詞とか冠詞とか等位接続詞とかは小文字のままにする(あるいは、文字数2以下。こっちのほうがモダン)」というルールがあると聞いてからは、自分が書くときは愚直にそういうふうに表記していたんだけど、最近は例外なく全単語を頭文字キャピタライズする表記をよりよく見る気がする。こっちのほうがさらにいまどきなのだろうか。

 

8.Song For A Seagull - Teleman

9.Dead Now - Frightened Rabbit

10.Car - Built To Spill

11.Pond - Paint Me Silver

 トロピカルな感じとコズミックサイケな感じがおなじくらいする不思議な曲だ。

 

12.Fa Fa Fa - Datarock

13.Heart-Shaped Box - Nirvana

14.The World Was a Mess But His Hair Was Perfect - The Rakes

 長くてよくわからないまぬけなことを言っているタイトルをもつご機嫌なナンバーいいよね! この系統のバンドは有名どころの層が厚いけどThe Rakesも渋くていいと思うんですよ。

すしらーめんりくの動画を見た

 

 最近友達と「東海オンエアの動画なに見た?」→「画像素材を自作してYouTuber仲間に売りつける動画*1 良かったよね」→「『すしらーめんりく』が出てきたのけっこう意外だった」というような流れの会話をした。

 

 すると友人が「『すしらーめんりく』ってだれか知らないんだよね」と言ったので、「本当に? 君もオタク趣味ばかりつきつめるんじゃなくて、ちょっとは世のなかのことに興味を持ったほうがいいんじゃない?」みたいなマウントをとったのだけど、よくよく考えると僕も正直すしらーめんりくの動画は2回くらいしか見たことがなかった。1日前の記事もそうだったのですが、最近、知ったかぶりでマウントをとることが多くて困っている。

 

 まあ後づけにはなってしまうのですが、知ったかぶりという悪い状態を脱すべくいくつかすしらーめんりくの動画を見た。

 こちらはコンプレッサで大量のハンドスピナーを回転させる「震動剣」を作る動画でした。面白くて過激な工作をしているチャンネルだというくらいの予備知識はあったが、けっこう危険なことしていますね。

 

 めちゃくちゃ派手な映像になっていて見ごたえはあったのだけど、ちゃんと考えてやっているひとなのか、あんまり考えなしでやっていてたまに炎上したり事故を起こしたりしているやばい人なのかわからないのでなかなかどういうふうに見るテンションを持っていけばいいのかわからない。YouTuberの見はじめってこういうところがあるのちょっとブレーキですよね。

 

 このような、さいあくトビがお腹いっぱいになるだけな動画は安心してみていられる。とても若い人でいま確か22歳とかなのだけど、なんかこう、いい意味でのもたっとした話しかたとか、若い世代って感じでスマートでいいですよね。

 

 この知恵の輪家にあったんですけど、解くのに3年くらいかかった思い出がある。すしらーめんりくさんはちゃんと内部構造を察したうえで解いている(ちょっと不十分な部分はあるが)ので、やっぱりクラフト系YouTuberはすごいなと思った。

 よく見ると、藤井聡太二冠*2と似た系統の貌と聲をしていますよね。天才の遺伝子の表現型これなのかもしれない。

 

 やっぱりすしらーめんりくさんはおばあちゃんが出てくるドッキリ動画が面白いですね。俺がおばあちゃんだったらこういう孫がいてめちゃくちゃかわいいと思う。子供がYouTuberはちょっといやだけど、孫がYouTuberになるのはかなりいいかもしれない。成長したら会いに来てくれないだろうけど、YouTuberだったらかわりに動画を見て「元気しているんだなあ」と思えるから。

 

 犬にドッキリを仕掛けた動画がこちら。いいですね。かわいい。

半歩だけ踏み込む~志村貴子「放浪息子」~

 

 「ルート225」についての回では、あたかも志村貴子さんのプロパーのファンであるようなふりをしていたが、じつはまったく志村貴子さんの漫画を読んだことがなかった。それによって、「知ったかぶりをしてしまった」後悔・罪悪感をずっと感じていて苦しかった。

 

 ネガティブな感情は、ずっと抱えているよりはどこかで前向きに行動することで解消したいものですよね。というわけで志村貴子さんの代表作「放浪息子」を読んでみた。するととても面白かったのでうれしかった。

 

 かわいい顔立ちをしていて、女性ものの服を着てみたいと思う男の子が主人公だが、そのほかにもけっこうな数の登場人物がいて、それぞれの人生を送る。作中で流れる時間もプレティーン~高校卒業くらいとけっこうなスパンがある。「異性装」というテーマを中心にして、登場人物たちの関わる小エピソードが次々と重ね塗りするように語られていくという、ボトムアップな作りをしている。

 

 「こういうコンプレックスを抱えていたこのキャラが、このキャラに影響されて、この出来事を潜り抜けて、自分の人生に答えを出す」……というような設計図がある作品ではないが、そうではないことがリアリティを生み出していて、また作品の雰囲気にも合っている。扱っているシリアスなテーマの語りかたとしてもふさわしいように思える。

 

 そこで稼いだリアリティポイントを、「登場人物がみんな強い*1」「しんどい出来事は起こるのだけど、本当の本当にしんどい部分には用心して踏み込まないようにしている」という作りを通すのに使っている感じだ。なので、お気楽なフィクションを読んでいる、という感じはしないけれど同時に、リアルな作品を読むときの心痛を感じるようにもなっていない。

 

 なので最終的には「異性装」というテーマに強い思い入れが持たれない状態で読まれるのがこの作品のいちばんいい読まれかたなのではないかという気がする。男の子になりたい女の子もいるし、女の子になりたい男の子もいる。ただ恰好をまねてみたいだけの人もいるし、その中間くらいの人もいる。そういう人の人生にはちょっと大変なことが起きるが、理解する人もいるし、その中間くらいの人もいる。……そういったことに特別注意をはらうのではなく、事実としてそうだなあくらいの流しかたをして、時間幅と行間をゆったりととって、作者の独特の味をまとった「成長していく子供たちの姿を描いた魅力ある群像劇」として楽しんだときに、いちばんいい作品となるのではないでしょうか。

 

 あと、この題材ながら一切ポルノ要素やロマンス要素で引っぱらないところと、結論的なものを出さなくても終われた作品だとは思うけれどあえて狙いを持った終わらせ方にしたところは非常に良いと思った。

 ただ、とつぜん作中作を使って、どれが作中で実際に選ばれたことなのかを曖昧にしてテクニカルに終わるのは、作品世界に対する作者の真摯さは感じたものの、作品のほかの部分と同様に事実を責任をもって描き切って終わるほうがふさわしかったのではないかとも思った。

*1:とくにあんなちゃんなどは人間ができ過ぎている。

言語習得と色恋~シコ・ブアルキ『ブダペスト』~

 

 僕は窮乏を訴えた、ブダペストで宿がないこと、自分の国では政治犯として追われていること、その間彼女がなんどもため息をつくのが聞こえた。僕のハンガリー語のせいだった、あまりに早々と劣化を見せた僕のハンガリー語に哀れみをもよおしたのだ。

 外国語を身につける一番手っ取り早い方法はその言葉を話す恋人を作ることだ、というのはけっこう聞くし、ある言語を習得したいという強い熱意は恋と似ているものである、と逆向きにたとえるのもよく見かける。『ブダペスト』(シコ・ブアルキ著)は、そういう、言語習得と色恋のもつ比喩的な、あるいはダイレクトなつながりが描かれている小説だと思う。

 

 主人公はポルトガル人のゴーストライターで、あるとき気まぐれに参加した「世界ゴーストライター大会」(的なもの)で訪れたブダペストハンガリー語と運命的な出会いをする。ハンガリー語のテキストはないかと訪れた本屋で、インラインスケートを履いた女性にこういわれる、――正確には(ハンガリー語は聞き取れないので)こういわれたのではないかと思う。「マジャール語は、本では身につかない」

 

美しい、白い、フェチェケの煙草、テーブル、コーヒー、インラインスケート、自転車、窓、車、ペテッカ、嬉しさ、一、二、三、九、十、そこで僕は我に返った。ハンガリー語を習うことなんておもちゃのようなもの、本当に難しいのはそれを頭から消し去ること。そして、想像するだけで震えたのは、間もなくクリスカや彼女の故郷から離れると、これらすべてのハンガリー語の単語も、帰国者の財布に残る硬貨同然になってしまうこと。

 

 ここまでの話だとちょっと誤解を与えてしまうけれど、『ブダペスト』はそこまでロマンチックなお話ではない。どっちかというとシュールで軽快なコメディのなかに、言語習得と色恋の関係を埋め込んだ、情熱的というよりは理知的で、技巧に富んだ作品である。*1とくにメインストーリーははっきりと奇抜ではないが、なんか妙に脈絡なく進んでいくので、ちょっと読みにくいではあるものの、そのぶん意外性があって楽しい。テーマ性というよりは、読み味とストーリーを楽しむ気楽なお話だ。

 

 作者のシコ・ブアルキさんはシンガーソングライターや詩人、作曲家*2、サッカーファン、独裁政権への反逆者としても活躍しており、小説家というのは彼にとってはどちらかというとマイナーな一面のようである。

 

 『ブダペスト』にもちょっとだけサッカー要素がある。最近、サッカーがちょっとでもモチーフになっている小説を集めているので、個人的にも良い収穫でした。

*1:と僕は思ったが、ラテン系の言語をしゃべる人たちにとってはふつうにロマンチックな話に映るのかもしれない。これはちょっとわからない。

*2:リオデジャネイロオリンピック開会式に楽曲を提供したらしい。

ファミレスの午前2時に

 

ファミレスの午前2時に
雨は聞こえていた
君は黙っていた
「もし俺がお前だったら
どうするか考えたい」
そう言い残して

僕らのほかには
バイトがひとり
彼も疲れ果てていた
寝ないでここに来たのだろう

母を信じなければ
母はきっと
図書館の来訪履歴に
しっかり気づいてくれている

僕にとっては
人生をかけた夜だった

 

積み上げたコインで清算をし
僕はかなえられなかった夢とともに
雨の中に消える
バイトも帰っていく
帰って二日分の睡眠をとる
母のことは忘れる
君は
それでも
手元から目を離さないで
考えに没頭するままだ