大学では英語以外の外国語をなにか選択して時間割にいれないといけなかった。フランス語や中国語、ドイツ語、スペイン語などが人気の言語なのだけど、僕はあえて難しいと言われていた「ロシア語」を選択した。
ちょっと変わったことが好きだった、というのと、当時なんとなく北方向に憧れがあったということ、ボリス・パステルナークの詩集が愛読書だったというのが理由である。
……ただ、変わったことが好きなわりには、自分の選択に責任を持たず、努力をしないですませてしまう、といったところがあり、6月ごろにはもうほとんど授業についていけなくなってしまっていた。どうせついていけないなら何語でもよかったのにね。
ついていけない授業に出席するのは精神的につらい。……とくに辛かったのは「ロシア語演習」と呼ばれる科目である。ネイティブの先生が受け持ち、ロシア語で簡単な会話をさせられたり、ロシア語の歌を歌わせられる。一見和気あいあいとした空気が流れているが、落伍したものにとっては「俺にあてないでくれ」「グループワーク始まらないでくれ……」「早く終わってくれ…」と祈るだけの時間だった。
担当の先生はウクライナ人で、恐怖とユーモアで教室を掌握するタイプの授業スタイルで有名だった。
そんな2014年のある日、ちょっと勇気が出た日があって、僕はひさびさにその授業に出席した。その日がちょうど、期末にある口述試験で歌わせられる課題曲についての説明がある日だった。ロシアがクリミアに侵攻してから、そんなに時間が経っていないある日のことだった。
「私はこのキャンパスで何年間も教えてきました。1年生向けの講義でみなさんに歌ってもらう課題曲として、これと決めている定番の曲がありました。ソビエト連邦時代の懐メロです。でも今年はその曲を歌うことはできません」
授業が始まると先生はそう言い*1、そのままぼろぼろと泣き崩れたので、教室は一瞬で静まり返った。
今年の新しい課題曲は、ユーリィ・アントーノフさんというひとの「Крыша дома твоего」*2というものだった。タイトルを直訳すると、「あなたの家の屋根」という意味になる。
先生の助けを借りながら、歌詞の意味する内容を授業のなかで読み解いていったような記憶はあるけれど、僕は落ちこぼれていたので全然ついていけなかった。ただ、何かしら、平和についてのメッセージが込められたシリアスであたたかな曲だったような気がする。
ちなみに僕はその前年も1年生としておなじ授業を受けていたので、その場で唯一、前年までの課題曲がなんだったのか知っている学生であった。
その曲がこちら。タイトルを英語に直す*3と「My Adress is Soviet Union」となる、テケテケとした愉快な曲だ。
どちらも面白い曲なので、大学を卒業してからもなんどか、思い出したときにちょっと検索して聞いてみたりしてきた。ここ数日もそうで、なんどか、周りが静かになる時間を見はからって聞いている。
個人の趣味としては旧定番曲のほうが愉快な感じがして好きなのだけど、……やはり、いまあえて聞く理由はない。こちらのほうがぴったりだ。
口述試験の成績はぜんぜんダメだったが、「あなたの家には屋根があります」と祈るように繰り返すサビの一部分だけ、いまでも重ね合わせて歌うことができる。「Есть крыша дома твоего」あなたの家には屋根があります、あなたの家には屋根があります、と。
苛烈な日差しや重い雪から身を守ってくれる屋根が、つねにあなたの家にありますように。