好きな国がある、というのはよく考えると不思議なことだと思う。建国の理念であったり、政治体制であったり、伝統や文化、国民のまとまり、といった個別の要素はあるにせよ、現実にあるどの国も、そういう説得力とはすこしずれた恣意的なひとまとまりをなしているのだから。
ただ、歴史の勉強をして、対立や戦争をしている国に出会うたびに、なんとなくどちらかの肩入れをしてしまうことが、すくなくとも僕にはある。
そこに知り合いがいるわけでもないが、ローマとカルタゴではカルタゴのほうになんとなく勝ってほしいと思ったし(負ける)*1、行ったことがあるわけではないがオスマン帝国とビザンツ帝国ではビザンツ帝国の方が好ましいと思えた(1453年、後者は前者に滅ぼされる)。
帝国主義時代の1世紀に渡った覇権争いでは、なんとなく心情的にフランスを応援していたし、それを引きずって、第一次世界大戦でも第二次世界大戦でもフランスを応援した。北アフリカ戦線をモチーフにしたウォーシミュレーションゲームでも操を守ってフランスでプレイし、中東の植民地にちょこっと残っていた自由フランスの亡命政権からアルジェやトリポリにむかってわずかな戦闘機を飛ばしてイギリスを支援していたりした。なにが面白くてそんなプレイをしていたのだろう。
その局面以外ではフランスがそこまで好きなわけではない。サッカーではイングランド、音楽や文学ではロシア、政治体制としてはドイツのほうが好みである。
対立に際する好きな国というのは、どこに由来しているのかわからない、不思議な重みづけである、……と、すくなくとも僕の事情に限っては思う。そしてこの、「好きな国がある」というのはかなり恣意的で、どちらかというと守り育てるよりは警戒して抑えるべき感情のような気がする。
昔大学で社会心理学の授業を受けていたとき、「人間は、それがどんなに恣意的なくくりであっても、グループに分けられてしまうと、自分の割り当てられたグループのほうを好ましく、自分が属していないグループを悪く評価してしまう」という結果を示した実験の話を聞いた。
ワシリー・カンディンスキー(上)とジャクソン・ポロック(下)の絵を被験者に見せて、ぱっと見どっちが好きだったかでふたつのグループに分ける。「こんなのどっちだっていいじゃないですか」と、実験のシチュエーションの説明をしながら教授がおどけてそう言ったのをおぼえている。反論する美術に詳しい学生はいなかった。実験ではそのあと、それぞれの被験者グループの個人に、自分のグループに対する印象とほかのグループに対する印象を尋ねる。「けど、そんなどっちでもいい違いが互いの印象に大きく影響するんです」
中学校のときの体育教師に、球技をするときのチーム分けを、「はい、朝ご飯はパンはとご飯派に分かれて下さい」「こっちはマック派! こっちはモス派ね!」というふうにしているひとがいた。たしかにその先生の授業では球技の対決が白熱していたような印象があるし、そうなるとたのしい授業となる。
社会心理学の知見を応用していたのかもしれない。
*1:ただ負けただけではなく、完全に都市を破壊されたうえで、さらに跡地に大量の塩をまかれたらしい。