なにをすべきかわかっている状態でなにもしないでいるのは心に悪い

 

 なにをすべきかわかっている状態でなにもしないでいるのは心に悪く、とてもストレスがたまる。なにをすべきかわかっているのになにもしないのには、考えられる理由がふたつあって、ひとつは「したくない」、もうひとつは「できない」だろう。

 

 「したくないのでしません!」と開き直って自分でも納得できている状態であれば、ストレスは大幅に軽減される、……ような気がするけれどちょっと待ってほしい。なにかをするべき、という義務が発生しているとき、多くの場合ではその義務を発生させているだれか他のひとがいるわけで、「したくないのでしません!」と開き直るためには、「したくない!」という個人的な気持ちをその相手にしない理由として承認させる必要がある。

 これは一般的にけっこう大変で、僕が「したくないのでしません!」という感じのときにはこの承認取りの作業をすべきだとわかっているのだけどなにもせず結局心を悪くしてしまう。僕が王に憧れているのは、この承認取りの作業をしないで済むからなのでしょう。

 

 ……現時点では僕は王ではないので、しなければならないことをいっこうにしないとき、僕にはそれをする能力がないからだ、ということにすることが多い。論理学の本にも、そもそも可能でないことは義務とはならない、と書いてあったような気がする。

 個人の歴においても、これまでずっと「レポート出せる気がしない」とか「俺コミュ力がないから」とか「就職するとか向いてない」というふうに、するかどうかではなくできるかどうかの話をずっとしていたのは、たぶんこれが理由なのだろう。

 とりあえずそうしておけば、なにをすべきかわかっている状態でなにもしないことのダメージはすこし軽減できる。いくつかの劣等感と引き換えに。

 

 しかし最近、なにをすべきかわかっている状態でなにもしないでいるときにもっとも心に良いのは、そもそも「なにをすべきかわからない状態のままでいる」ことだということがわかってきた。

 

 そもそも知的な好奇心を満たすことが好きなタイプで、なにもできないしなにもする気が起きないことであっても、とりあえずなにをすべきかは興味あるし知っておくか、……という感じでこれまでは動くことが多く、そのため、子供のころから、環境問題だったり、家族の経済状況だったり、……その時々によって対象は変わったけれど、ひとに自分を魅力的に見せる方法だったり、身の回りで起こる差別の解消方法だったり、そういうのを調べることがとても面白くてずっと続けていた。

 なので、知らない、っていうことにメンタルヘルス的なメリットがあるというのが、まあ考えてみればそうなのだけど、でもけっこう意外だった。

 

 よし、これからは心機一転、これまでの自分をぱたりと変えて、「知らない」を貫くべきだ! ……とも思ったのだけど、今日もさっそく、「機能してない組織を一社員の立場から変えて、生き生きと働くための心構えや方法」をいろいろ調べてしまって、かなり心が悪くなっている。なにをすべきかわかっている状態でなにもしないでいることから、なかなか抜け出せない。