はい、と手のひらに渡されたとき、暖かい涙のスコールが心の天空をよぎっていくのがわかった。手がしびれるように重く甘く、昔、子供のころ、生まれたての小鳥を持たされたときのことを思い出した。
「こんなものを手に入れてしまってどうしよう。形あるものはみなこわれるのに。」
と私が泣いたら、彼は
「なんど手放してもまたいくらでも作れるから。作ってあげるよ。」
と言った
(「とかげ」)
いろんなひとに意外だと言われるのだが(それは嘘で現実でそんな話の流れになったことはなく、なので言われたことはない。ただ、可能的な状況を考えるとこれは言われると思う)、僕はけっこう吉本ばななさんの小説が好きである。
吉本ばななさんはだいぶたくさんの作品を書いている作家で、僕はそのうちのわずかな部分を読んだことがあるにすぎないのだけど、読むときはけっこう大事に読んでいるし、「これから吉本ばななの本を読むぞ」という明確な目的意識も持っている。それに読んだときはけっこう毎回一様に感動している。
二人の考えはそのように全くちがうが、私たちは太古の男女だ。アダムとイブの恋心のモデルだ。愛しあう男女のすべての女にそういうくせのバリエーションが、すべての男に凝視の瞬間がある。おたがいを写しあい永遠に続くらせんだ。
(「らせん」)
吉本ばななは「どれを読んでもだいたいおなじ味がする」作家であり、そのするおなじ味に作家としてのスペシャリティがあると僕は思っている。
描かれる物語のなかで、焦点となる人物はみんな受動的である。多くの小説では、ドラマの中心にいる主人公がなんらかを意図し、その意図を行動に移していくことで状況が変わっていくのだが、吉本ばななの小説のなかでは物語の動きは状況というか、おおきくて漠然とした、スピリチュアルなステータスの変化によってもたらされる。
スピリチュアルなステータスのプラスな変化がある、つまりなにか恩寵がもたらされる場面が、小説の多くでクライマックスになっていて、その恩寵がもたらされる理由というか、主人公がその恩寵に値する筋道だてというのは、ほとんどの場合目に見えるものとしては示されないのだけど、それにもかかわらずそのことに謎の物語的な説得力があり、そういうお話を読んでいるとなぜか読んでいるほうが癒される。……そういう、ほかにはない読み味がある作家である。
朝が来たら、もう10年も2人でその山の中にいたような気がした。木立をぬう朝日と澄んだ空気が、心の表面を刺すように懐かしかった。どこもかしこも丸くたるんだその体も甘い匂いがして好きだった。
午後はヴィデオ映画を観て、夜はどこまでも続けた。
そして何をしていても夜を待っていた。
(「大川端奇譚」)
文章もスペシャルで良いですよね。物事を描写するときに、具体的な手触りではなく、目のまえにある物事のその奥にある抽象的な特質を、陳腐な言いまわしをひとつひとつ避けながら書いている感じがある。ひととは違う見かたで見ている世界をそのまま、ほかのひとたちとおなじひとそろいのセットの語彙で表現できる、というかなり独特な能力がある。