川田順『妻』

 

 ルームメイトが僕に段ボールを見せて「いま、本棚を整理していて、これはどうしてもいらないので捨てる本なんだけど、どうせ捨てるくらいならなにかもらう?」と話しかけてきた。

 

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 そのときにもらった本がこちらである。出版されたのは1942年2月20日とあまりにも古い。太平洋戦争が激化し、アメリカ合衆国では日系人の強制収容がはじまった時期である。アマゾンには取り扱いどころかページもないし、ISBNももちろんついていない。奥付には紙でできた印紙が貼りつけられている。

 

 作者の川田順さんは歌人で実業家、文芸をしながら住友で常務理事を務めもしたらしい。前現代によくいるなんでもできるスーパーパーソンである。Wikipediaにも単独ページがあって、そこにはけっこう興味深い来歴が語られている。

 

いかなる女なりしかをその夫にいのち終わりて知られたるはや

 タイトルどおり、まずは妻の葬式の場面を歌った連作から歌集ははじまる。個人に捧ぐ歌のなかに、ちょっときれいごとになりきるには生な感じの、ソリッドな認識をしている歌が散見されて、それがちょっとした読みどころになっている。

 

 

澁谷目黑區の界(さかひ)する舗装路の一直線を照れり月夜は

 

郊外へ出づる舗道の月夜ふけ解體して搬(はこ)ぶ爆撃機あり

 

兵隊が宮益坂を下りて來る駈足の喇叭夜ふけにきこゆ

 歌が詠まれたのは1940~41年。日本が中国を侵略していた時期であり、アメリカとの戦争の開幕前夜である。見聞きしたものを歌う歌のなかにもちらっと戦争の影が見えるし、戦争そのものを主題にした歌も多い。歴史のなかを生きた人の記録としても面白がれるけれど、たんにそれ自身としてよい歌も多い。

 渋谷区目黒区の境界線の道路を月夜が照らしているという歌、映像がソリッドで良いですね。

 

丸之内の晝*1火事にしてわれ一人いらいらするを皆は執務す

 

はるかなる遠世の人の手すさびの土の猪も猪と見ゆ

 「丸之内~」の歌では、火事に気を揉む自分と普通どおりに仕事をしている周囲をさらに自分が俯瞰していて、客観性のなかに謎のすごみがある。「われ一人いらいらする」というゆるい字面と「皆は執務す」というきりっとした字面の対比も効いていますね。

 「はるかなる~」の歌は博物館で見た猪の土器についての歌。最後まで行ったところで意味と作品に込めた趣がわかるような作りになっていて、歌を読む楽しみがある。

 

昔より江南の春といふ言葉詩に見飽きしを目の当たりにす

 

昨日今日鱖魚(けつぎょ)の味を吾が知りて象牙の箸の長きも使ふ

 中国に駐在していたころのことを回想して詠んだこれらの歌も良い。「けつぎょ」というのは中国の高級魚で、日本には輸入が禁止されている。それがおいしくて、中国ご当地の、日本人からするとちょっと長く思えるお箸も違和感なく使ってしまう、というストーリーの仕立てが良い。

 

 良い歌集でした。古い本は拾ったほうがいい。

*1:これは「昼」という字。