泉の国滞在記


 生きていたころ、お別れのあいさつをする人たちがみんなさびしそうにしているのが、わたしには不思議だった。だって、生きていればまた会うこともあるだろうし、死んだあとにはかならず会えるでしょ。

 

 死ぬ前の最後の一時間以外は苦しくはなかった。うそ。お薬の副作用とか、だんだん言うことを聞かなくなってくる体、つねにかすれていてするたびに痛い呼吸なんかはあったけれど、でも、我慢できないほどじゃなかった。我慢できなくて、もうなにもいらないから早く終わってほしいと思ったのは最後の一時間だけ。

 

 死んだあと、わたしは階段の踊り場にいた。曲げていた膝を伸ばして立ち上がってみると、目線の先に手彫りされた文章があった。冗談好きだけど優しい、死後の世界の人たちが書いた、「驚かせてしまったかもな。上に行く階段と、下に行く階段があって、どちらを選ぶか試しているように見えるのはじつはこの世界風のジョークなんだ。どちらを選んでも、おなじところに着く。もし、君にショックを与えてしまっていたのなら、謝るよ」

 どちらでもいいってことがかえって選ぶのを難しくさせたわ。でも、結局は上っていく階段を選んだ。そしたら、一歩一歩、あたりが明るくなっていって、気づいたときには泉のあるおおきな国に着いていた。

 

「やあ」

 戸惑っているわたしに、ちいさな男の子が声をかけた。わたしはしゃがんで、目線を合わせて答えた。この世界にいる大半の人より、もしかしたらわたしは若くて小さいのかも。だけれど、その男の子よりはぜんぜん大きかった。

「不思議だよね。ここにやってくるための階段と、ここから出ていくための泉が、おなじ場所に設置されてるなんて。だから、ここを出ていくことにきめた人と新しくやってきた人が、たまたま出会ったりするんだよ。そういうときには出ていくほうの人が、いったん出ていくのを先送りにして、この国の案内をしなきゃいけない、そういうルールになってるんだ」

 

 わたしは男の子につれられてこの国を回った。郵便局、トレードセンター、青果市場、航空公園、……生きていたころの世界にあったものは、たいていこの世界にもあった。図書館、美術館、庭園、……噴水。

 生きていたころの世界で出会った人たちにも、また会うことができた。ある人はにこっと笑い、ある人はくしゃっと笑い、ある人は杖を放り出し、倒れかかるようにわたしを抱きしめて泣いた。

 

「ちぇっ、君の知り合いはウェットすぎるぜ。天国でそんなに泣くことなんてあるかい?」

 3人目の大泣きの人と会ったあと、わたしの案内役の男の子は皮肉っぽく言った。その皮肉っぽさと、そのなかにあるまっすぐさの混じりあいが、わたしの胸をつかんだ。こういう男の子が好きだった。……生きていたときのことを思い出した。

 

「俺にはね、この国で俺を待ってくれる人なんていなかったよ。だから、泉に飛び込んで、もう一回生きようと思うんだ。つぎはきっと、ばっちりな時間を過ごすよ」

 そのためにも、はやく案内を終えないとなっていって、男の子は歩くペースを速めた。わたしもそれについていった。

 

 わたしはわたしの家族と再会した。お母さんもお父さんも弟も甥っ子も姪っ子も、みんなおじいさんとおばあさんになっていた。わたしだけが13歳のままだった。それを見たとき、この世界に来て初めてネガティブな感情が湧いて、あの男の子といっしょに泉に飛び込んで、もう一回生きなおそうかしらって思った。わたしを知っている人たちのだれとも関係のない人になって、今回のよりは長い人生を、もう一度。

 お母さんとお父さんはわたしが死んだあとの話をいろいろとしてくれた。弟は、さらにその先の話まで。甥っ子と姪っ子はさらにその先を。その、どの時間のなかにも、わたしの影が落ちていることを知って、泉に飛び込もうと思ったさっきの考えを、ちょっと改めた。生まれつきの肺の病気とともに生きたことは外れくじを引いたようだったけれど、意味がないことではなかったのかもしれない。

 

 案内が終わって、最初の泉のまえに戻ってきて、わたしは男の子に言った。「わたし、あなたとすぐに泉に飛び込むのもいいかも」

 

「この世界では時間っていうものはないんだ。でも、泉に入っちゃったら、べつの意味で時間はなくなる。おもいっきり生きるしかなくなるんだぜ。よく考えな。俺だって、この世界で長いあいだ、――長いっては間違った言い回しだけど、とにかく長く考えたんだ。やっとだした答えなんだ」

 

 男の子はうれしそうな顔ひとつもせず、そう言った。わたしは落ち込んだ。立ち直る暇も与えてくれないほどあっさり、彼は泉に飛び込んでしまった。

 

 しばらく、その場にたたずんでいる。この国には時間がないから、それは何日にもなるし何年にもなる。

 泉を覗きこんでみると、そこには男の子の影が映っていた。男の子は、いままさに生まれたばかりだった。泣くことをおぼえ、声を発することをおぼえ、立ち上がることをおぼえた。わたしは水のなかの像に夢中になった。

 男の子が生まれた国は裕福ではなかった。身体も健康とはいえなかった。……けれど、努力と幸運がすこしずつ、男の子の人生を良いほうに導いていった。そのなかには、腹が立つようなひどい仕打ちがあり、胸がすくような幸せの報いがあり、声援を送りたくなるような失態があり、喝采を送りたくなるような勝利があった。

 いつのまにか男の子は、男の子と呼ぶわけにはいかない青年になっていた。かねてからおたがい、遠慮のない付き合いをしていた相手と、結婚することになった。その結婚式を見ていた。

 

 そのとき、わたしは後ろから声を掛けられた。

「あの、……すみません。ここに、はじめて、来たのですが」

 立っているのもおぼつかないおばあちゃんだった。わたしはいそいで杖置き場から取ってきた杖を渡した。つぎはわたしが案内する番なのだ。杖をついているんなら、案内はゆったりで、長くかかる旅になるだろう。彼のその先を見ることは、できなくなるだろう。

 

 それでいいのかもしれない。もし、また生きることがうらやましくなったのなら、泉に飛び込めばいい。……とりあえずは。

「まずは、郵便局を見にいきましょう」

 そう言って、わたしはおばあちゃんと歩きはじめた。一歩進めば、ひと呼吸休憩するような、緩慢な進みかたで。