それは「デザインした主体、主体がデザインすることが物事の生起をコントロールする」という、結局はシステム論的に転換する前段階の考えかたになってしまう。これはえぐい罠で、僕もかなり引っかかってしまうんだけど、ではかからないようにするにはどうすればいいのか、と考えるとまたわからない。
— soudai (@kageboushi99m2) 2019年12月26日
という問題意識がある。
まず最初に思いつくのは、システムのなかで自分の振る舞いが行動を決定しているようにふるまうことと、システムをデザインすることのあいだには層の違いがあるということでしょう。
たとえば、そこに集う人の間で自然とコミュニケーションが生まれるような公園を建設した設計士が、そのあと二度とその公園を訪れないのであれば上述したようなことは問題にならない。
しかし逆にいえば、そのような公園を作ったあと、やっぱりそのコミュニケーション公園がちゃんと機能しているのか気になってしまい、実際にその場を訪れ、来園客に「ここではこのようにするのがデザインにかなった振る舞いであり、こうするとみんな楽しいですよ」とそれとなく伝えてしまったりすると、それはこの公園をデザインしたこととの合わせ技で、反システム論的な行動になってしまっている。
公園なら切り分けることは理屈上できるが、実際の局面では、自分が設計したフィールドで自分がファシリテーターとしてふるまわないのはなかなか難しいのではないか。
ほかには、システム論的な考えかたはそもそも、システムを操って目的を達成するための個人の能力である、と考えるという可能性がある。「結果は個人に帰する」→「当事者同士の相互作用のなかで結果が生じる」という転換は、物事のありかたに関する根本的な考えかたの転換などではなく、たんなるライフハックのようなものである、としてしまうことができるでしょう。
個人的な趣味としてはこの考えかたは取りたくないので、これを棄却したいというモチベーションからまたいろいろ考えてみたいと思うが、もしなにも思いつかなかったらこれをするしかない。これをしたばあい、システム論的な知見を用いて反システム論的に行動することはべつに問題にはならず、なにかをするときに悩まずに済む。
システム論的な知見を頭の片隅に置いておきつつ、実際に人や環境と相互作用する場では、システムのなかでおきるさまざまなことやゆらぎに敏感になりつつ、自覚的に、バランスよく行動する。落としどころとしては、こういうことになるのかもしれないが、実践の上でも理屈のうえでも、この答えではあまりなにかの答えになっているようには思えない。
まったく役に立たない答えだけど、当面はこれでやっていくしかない。そもそも、完全な答えを見つけて、それでぜんぶ正解にしようというのがそもそもシステム論的な発想になっていないのである。とりあえずはなにもわからなくても、手探りで目の前にあるだれかやなにかと、相互作用を繰り返すしかない。
失敗とかすると本当にへこむのでできれば指針を先に欲しいんですけどね…。