キメラアント編が終わった

 

 「HUNTER×HUNTER」は好きなマンガで、キルアがダツ*1に刺されているくらいまでは何度も繰り返し、擦り切れるほど読んでいたのだが、成長とともにこだわりを失い次第に読まなくなっていってて、たぶん最後に読んだのは王と会長が対峙する(感謝の正拳突き1万回)ところくらいまでである。

 

 なので近年は、「HUNTER×HUNTER」の話題になったときは「俺のなかではまだキメラアント編終わってないんだよね~」とへらへらしていることくらいしかできなかった。*2

 

 ……だがそれは昨日までの自分! ついに読みましたよ「HUNTER×HUNTER」。キメラアント編、とてもとても面白かった。

 

 登場人物それぞれに目的があって、とれる行動の可能性と限界がある。それら登場人物どうしが絡み合ってシチュエーションが作られ、それがまた行動を可能にしたり制限したりする。シチュエーションの背後にはマクロな動きがあって、それがまた登場人物と左右しあう。こういった全体を、その全体の中のさまざまな立ち位置にいるキャラクターたちの視点を借りながらちょっとずつ描いていく。ただ複雑な全体が描かれるだけではなくて、山場と引きが無数にあり、最後にはカタルシスがある。

 

 個人的には弱いキャラが尊厳を持って描かれているのが好みだった。行動可能性が限られているキャラがそのなかで、なんとか目的を果たすために全力を尽くしているのが「人生」と重なって好きである。

 同時にまったく何もできない、ただ殺されるしかない群衆のすがたも印象的になんども描かれているのもいいですよね。俺はこちら側の人間だ…ということを再三確認しながら読むことになるので、せつなさが深まる。

 いちばん好きだったキャラは、(みんなそうだと思うのですが)プロヴーダです。最後は号泣した。

 

 昔なんらかのインターネット評論で、「日本のポピュラー作品は『政治』が描けていない」と言われていたのがすごく印象に残っているが、(ここで「政治」というのは、いわゆる政治家とかの政治ではなく、立場や利害の違うアクターがまっさらに共感し合ったり対立し合ったりするのではなく、有形・無形の圧力や利益供与などを通じて折衝や妥協をして、おたがいの目的の達成を目指すプロセス一般を指していると思われる)「HUNTER×HUNTER」は完全に例外である。

 

 あと最終的にすごいヒューマニスティックな終わりかたをするのも感動した。「HUNTER×HUNTER」ってけっこう露悪的なシーンが多いですが、キャラクターを惨めなまま作品の中にとり残さない優しさみたいなのが感じられて、作者を信頼できる。

 

 ひとコマ見て、ちょっとおお~と思ったのはここ。量子論の不確定性の話を念頭に置いたセリフだと思われるが、「サイエンスをポエティックに作品に援用する」がきれいに決まっていてかっこいいとおもった。

 昔森博嗣の小説に冨樫義博が文庫版解説を寄せているのを読んだことあるのだけど、そのときもけっこう「理系」的なことが好きという話をしていたので、やっぱりこういうのが好きなのかもしれない。

 (6/20追記:「小さいという概念は、そのものが発し得るエネルギーの総量とイコールではなかった"か"」だと空目していました。指摘してくれたかた、ありがとうございます…)

 

 というわけで「HUNTER×HUNTER」、続きも読んでいっていた。のだけど、途中33巻をミスで飛ばしたまま34巻を読んでしまい、読み終わった後に気づいて「だからみんながなにをしているのかぜんぜんわからなかったのか」となって改めて33巻を読んでからもう一回34巻を読んだのだけど、「なにをしているのかわからなかった」度合いが飛ばして読んでたときとあまり変わらなかったので、そこで読むのをやめた。

*1:魚のダツです。

*2:BLEACHの話題になったときには「(俺の中では)まだルキアが助かってない」と言っていた。