歌集『水中翼船炎上中』

 

 水中翼船(すいちゅうよくせん)、または、ハイドロフォイル(Hydrofoil) とは、推進時に発生する水の抵抗を減らす目的のため、船腹より下に「水中翼」(すいちゅうよく)と呼ばれる構造物を持った船。(水中翼船 - Wikipedia

  『水中翼船炎上中』は穂村弘の17年ぶりの歌集である。ほかの多くの短歌大好き人と同様に、僕も穂村弘の作品がきっかけで短歌に興味を持った。高校のころの国語の授業中は暇だったので、国語便覧を熟読していて、その詩歌のページにあったのが穂村弘の短歌だった。「終バスに~」の歌と、体温計を咥える歌があった。

 そのあと図書館で『シンジケート』『ドライ ドライ アイス』を借りて読み、自転車のサドルを高く上げる歌に胸がすっとする感じがしたり、金星がどれだかわかったら舌で指させる歌にエロさを感じたりしていた。図書館には雑誌の「ダ・ヴィンチ」も置いてあって、短歌くださいのコーナーのバックナンバーを読み漁ったりもした。それで、短歌は自分でも作れるものだと知って、そのときちょうど行った北海道旅行のときに一首だけ歌を作った。二首目を作ったのは高校を卒業して半年くらい経ったころ、またべつのルートで短歌に興味を持ちはじめてからのことだった。

 

水中翼船炎上中

水中翼船炎上中

 

 というわけで、僕にとっての穂村弘はきっかけであると同時に、ひとつべつの時代をはさんだ古い地層の中にいる(唯一の)歌人である。

 

 わけがわからないけれど何故か惹かれた、かっこよかったりエロかったりダサかったりする鮮烈な印象の歌は減っていて、かわりに、歌集全体としての構築性が上がっているように感じる。読みどころは個々の歌ではなくて、一冊の本の全体に置かれている。

 具体的な読みどころを一点だけあげると、歌集のいろいろなところに置かれていたり、ある連作のなかで主要なものとして扱われていたりする、富士山(を見ること)・髪型・サンドイッチとおにぎりの対比・蟻などといったモチーフたちが、歌集の最後におかれた連作「水中翼船炎上中」でつぎつぎと再登場するさまは、交響曲の最終楽章でそれまでの楽章で使われたフレーズの断片や変奏がつぎつぎと蘇ってくるときのようで、かなり美しかった。

 

先生がいずみいずみになっちゃってなんだかわからない新学期

 ある日突然先生や生徒の名字が変わった、という小学校時代の経験を詠んだ歌でしょう。名字が変わるという変なことが起こる、社会がそういう仕組みになっている、ということをとりあえず飲みこみはしたけれど、なんだかわからないという気持ちもそのまま残っている。

 「泉泉」とか「恵恵」みたいな、こういうふうに名字が変わったら困っちゃうよね、みたいなよくある、そしてリアリティのないたとえ話をそのまま素材として使っていて、それが上記のリアリティのある感傷と衝突事故を起こしているようにみえる。正直とても異様に感じた。

 

ハミングって何と尋ねてハミングをしてくれたのに気づかなかった

 どう考えても嘘エピソードだけど、嘘エピソードがしかもちえないぎりぎりの美しさを放っている。わたしにとってあなたはハミングって何?って、他愛のない、恥ずかしい、素朴な、文脈のない疑問を尋ねられるくらい親しい相手だし、あなたにとってわたしは、そんな無防備な疑問の脇腹を刺すようにハミングすることで答える、そういうことができるくらい気の置けない相手である。

 そんなふたりのあいだで、コミュニケーションが成立しない。描かれている光景はのどかで親密だけど、詩としてはひとつ上のレベルで静かなアイロニーを湛えている。傑作すぎる。