天使は堕天してゆく途中

 

 


 天使のように美しい男に出会ったのはその日の3時間目の授業中のことだった。その男は自らのことを説明して「天使だ」と言った。

 その日の3時間目は授業に出席しないことにした。その時間でなにか別のことをして過ごす必要があり、校舎を塗りつぶすように散歩していた。すれ違った先生や生徒はだれもすれ違った相手を気に留めなかった。義務をなまける、ということが特別な関心を引くような高校ではなかった。出席してくる生徒はすくなく、先生も個人的な理由でよく授業を休む。生徒は先生になんの興味も持っていなかったし、先生も生徒になんの興味も持っていなかった。先生どうし、生徒どうしもおなじ関係だった。そういうスタイルが校舎全体に染みついていて、その状況を憂事だと考えているものはだれもいなかった。
 正門から向かって右にある翼棟を歩きつくし、そこからブリッジとなる棟に移動した。一階には生徒用玄関があり、その上の階にはスペースと掲示板、自動販売機があり、そのほかには一階から屋上まで続く螺旋階段があるだけの建物だった。僕は一階からその階段を上っていった。天井近くには横に細長い採光窓があり、光の帯を段の途中に投げかけていた。光は静止しており、僕がまたぐときだけ影になった。
 屋上のドアを開けると、そこにその美しい男がいた。僕はそのまま手すりまで歩き、そこから校庭を眺めた。校庭を眺めていることが面白くなくなるまでここにいようと思っていたが、広くはない屋上のスペースを知りあいではない美しい男と分けあっているのは心地よい気分ではなかった。僕がドアから室内に戻ろうとしたとき、男が僕に声をかけた。

「ねえ」

 この天使のように美しい男がこの学校の人間ではないということは、その声の響きから明らかだった。自らへの接近の許可を与え、さらに対面の相手への接近の許可を願い出る、やわらかでなれなれしい声は、この学校では発されることがなかったような種類の声だった。

「はい?」
「聞きたいんだけど。その、君がさっきやって来て、これから去って行こうとしているドアの先をいくと、下に行ける?」
「行けます」

 屋上に来た人間で、このドアの行く先を知らないということはありえないことのように思われた。そこを通って来るしかないのだから。

「あなたは誰ですか? この学校の関係者ですか?」

 その質問に天使は「天使だ」と答えた。そのあと、「地獄へたどり着くまでのあいだはまだ、だけどね」と付けくわえた。

 天使は言葉を続けて、自分がなにを言っているのか僕にわからせようとした。「いま、長いあいだ、降りていく旅の最中なんだ。本当は、ここの、ずっと真上で暮らしていた」そう言って彼は空を指さした。空には雲はまばらで、透きとおる何層もの青い色がその奥行きを知らせていた。太陽を遮るものはなにもなく、光が目を傷めた。

「俺の故郷はとても住みよいところだったよ。ちいさなころからあたりまえに享受していたものが、この地上の世界にはないんだって気づいたときにはびっくりした。もちろん、この世界をすべて見回ったわけじゃないけれど。……あまり寄り道をすることは許されていないんだ。最短距離を行かなきゃいけないというほど融通の利かないわけじゃない。ただ、」

 そこで天使は口を止めた。彼の指が水平線を指さしていることに気づくのに時間がかかった。僕が方向指示を受けとったのを確認して、天使は続けた。

「この世界には広がりと裏側があるだろ? いくら俺を懲罰した天使がお目こぼしの達人だとは言っても、裏側まで行くのは無理だ。まあ、裏側まで行ったところでどこもおなじなんだろうな、っていうのは感じるよ。ここから見渡すだけでだいたいわかる」

 その、見下すような言いかたには反感を覚えた。地球のどこかべつの国よりは、いま自分が暮らしている国のほうが良い場所であるということを僕は知識として知っていて、その違いは無視できるほど些細ではないと思った。天使は僕の表情を読み取って、自分もすこし表情を変えたが、その変わった表情も美しかった。天使と名乗る男は僕に反論の時間を許さなかった。僕もそこまで熱心に反論したいというわけではなかったので、聴取を続けた。

「天国はこことは違う。真円をしていて平らだ。中心を始まりとして、端まで行くとどこも微妙に景色が違う。為されていることやできることがそれぞれのエリアで大きく異なっている。異なってはいるが、そのあいだに優劣はない。どれもひとしく素晴らしい。尊敬されている。神が尊敬しているんだ。彼の尊敬は無限大だから。……俺は、真ん中よりは端っこにいるほうが好きだったけどな。でも、ただの好き嫌いだ」
「端っこにいたから、落ちてしまったのか?」

 彼は咎めるような目で僕を見た。力に裏づけられた視線で、ここで相手の機嫌を損なってはいけないのは自分のほうだと思い知らされた。

「僕が堕ちるに至った経緯に関しては、個人的なことなので君に言うことではない」

 僕はそれを会話の終了の合図だと受け取った。背を向けて階段のほうへ行こうとすると、天使のように美しい男はそれを呼び止めはしなかったが、かわりにほぼ呼び止めたに等しいおおきな身振りで、手すりのほうへ向かった。

「降りないんですか?」
「君は降りるといい」
「あ、――。天使は?」

 あなたのかわりに選んだ自分でも違和感の残る二人称を、美しい男は喜んで受け取った。

「ここから見える景色は興味深い。飽きるまで見渡してから堕天を続けようと思ったんだ。――いちど高度を下げてしまったら、それ以上上には、にどと戻れない仕組みになっているんだ」

 天使は手すりから一歩離れた位置に直立して、さきほど僕が見限ろうとした景色を、焼きつけるように見つめていた。僕はそれにつき合った。そのあと、階段室に入って、彼は一歩だけ段を下りた。「今日はこれくらいにしておくよ」そういって、段差に腰を掛けた。僕は彼を追い抜いた。彼の足もとに採光窓から光の帯が投射されていた。「ここに、止まれのラインがある。そういうふうに、俺には見える」

「でもそれは、動きますよ」

 僕は最後にそう言って、彼から離れた。彼は信じられないという目で僕を見た。「太陽が動きますから」

「そうか、そうだな。地上ではそうだったのを忘れてた。……俺のいた故郷では太陽は動かないんだ。不動で、静止している」

 そのつぎの日、放課後に立ち寄ったとき、彼は昨日よりも5段ほど下の位置に居た。手すりに腰を乗せ、凭れかかるのと座るのの中間の姿勢をとっていた。その足元に、光のラインがあった。

「ここだと、なにも動くものがないので、退屈じゃないですか?」

 天使は不機嫌だった。目をあわせずに、革靴の先で足元の光を指した。「こいつが動く」

「夜のあいだはなにをしているんですか?」

 屋上に降り立ってからだけではなく、それまでの天国からのはるかなる落差を彼は旅してきたのであり、夜の問題はこの一夜のことだけではなく、連なったひとつながりのものであるはずだった。その点に配慮して、僕は過去形ではなく現在形を使って尋ねた。僕が、相手の背景を理解し、大局的な観点から対話ができる人物であることを示したかった。

「夜のことは聞かないでほしい。そもそも、俺の故郷に夜はなかった」
「日が昇ってからはなにを?」
「……」
「天国についていろいろ聞かせてくれませんか。話し相手くらいにはなれますよ?」

 天使のように美しい男は手すり側に背をもたれて座った。僕はおなじ段の反対側、壁面にもたれて座った。会話が続き、時が進んだ。足元にあった光の帯は遠くに行ってしまい、夕闇の到来とともに消えた。そのことに美しい男が気づいた。

「なんだ。じゃあ今日はこのままだな」
「このまま?」
「下りないということだ」
「立ちどまってもかまわないんですか?」
「立ちどまってもかまわないか?」
「天使は地獄へ向かって下りて行く途中だと、僕は理解していて。階段を降り続けなければいけない。……そのルールには逆らえないと」
「一方向にしか行けない、というだけだよ」

 天使の表情をうかがって真意を判断しようとしたが、夕闇のなかで見えなかった。「上がることはできなくても、動かない日があっても構わない、ということですか?」彼はおなじ言葉を繰り返した「一方向にしか行けない、ということだ」

 それからも交流の日々は続いた。天使は日に日に高度を下げていった。僕と天使の会話は、どちらかが思考に入っているときのほかには途切れず、話題は多岐にわたった。天国の多様についての知識が増えていったが、それでも毎日それまでの日々を通して一度も登場することのなかったテーマを天使は取りあげた。僕が会話を夕暮れまで引き延ばすことができた日を除いてつねに、会話を終えたときの天使は会話を始めたときより低い場所にいた。4階が終わった。天使と僕の会話は次第に広がり、始まったときは想定してもいなかったテーマについて語るようになった。天使はこの地上のものやことについて、僕に尋ねた。僕は自分の意見は挟まず、手元の携帯で検索して出てくる信頼できそうな情報のみを話した。天使は地上についての知識を増し、2階に踏み入った。屋上ははるか頭上にあった。2階に入っても階段の景色には変化はなく、変わったのは光の帯が通過する時間帯や速度だけだったが、そのころにはもう天使も僕も光の帯が僕らにとって重要な意味があるとは思えなくなっていた。

「天使にとってはこの階段のうえの降下は、長い長い地獄への旅のたった一瞬の出来事にしか過ぎないのだとは思いますが、僕にとっては有意義な時間だった。天使が下りて行ってしまってからも残るような、なにか記念の品を残せないだろうか?」

 あるとき僕は話の流れを遮って天使にひとつの提案をした。天使は無言だったが、おそらく了承していた。僕は携帯を取り出し、手を伸ばしてカメラにふたりの姿を入れた。その結果映しとられた僕らの像を天使に見せようとして携帯を差し出したが、天使はそれを受けとらなかった。

「地上のものを触ると、痛みがあるんだ」
「痛み?」
「懲罰のルールで、地上のものには触れないようになっている」

 天使は手すりを手でつかみ、その上に腰を乗せていた。

「けど、手すりをつかんでいる」
「これはずっとやっているから慣れた。足と床もだよ。……ただ、新しいものを触るときは痛い。それはそっちだけで持っていてくれ」

 彼は画面から目を背けた。僕はべつの日に光沢紙を購入し、一枚だけ使って画像をプリントアウトした。その写真を彼のシャツの胸のポケットに、彼には触らせず自分で押しこんだ。「これだと、痛いですか?」「いや、なんともなかった」

 べつの日にはべつの出来事があった。その日僕は天使のもとにきてすぐに口を開けた。「素朴な疑問があるんだけど」

「疑問?」
「僕は死んだら天国に行くだろうか?」

 この質問によって自分が愚かだと思われないことを、この日々のなかでいつのまにか存在を信じるようになった神様に祈った。僕は賭けに勝利し、男はやわらかな発音で諭すように答えた。

「人間は天国には行けない。根本的に、天国は別格の場所なんだ」

 それは聞きたい側の答えではなかった。長い沈黙のあと、問いが終わってないことを察した男が、人差し指で下を指さした。床面よりも、はるか遠くを。「人間は、全員向こうに行く」

「例外なく?」
「例外は、なかった」

 天使はある表情をした。冗談を言っているのだと受けとったが、しかし、冗談でないとすれば恐ろしいことだった。僕は学校を離れたあともさっきの冗談について考えた。天国のことを考え、地獄のことを考えた。天使が天国を追放され、地獄に落ちていく、そのような罰をもたらした彼の犯罪行為とはどのようなものだったのだろうか、考えた。なぜ、あの美しい男は、天国という満たされた場所で、罪を犯そうと意志したのか。

 あるときは僕は彼をからかって言った。「天使が天使であるという証拠を見せてほしいな」天使は笑って上着を脱いだ。「ここに昔、羽があった」と言い、背面のままそこを指でなぞった。「懲罰が始まるまでは」

「痛いですか?」
「痛みはない」

 天使はしだいに自分自身のことについて話すようになった。語るべき天国の出来事の底が尽きたのではなく、(――なぜなら、天国は無限で広大なので、――彼の言葉)、彼が自分の意志でそう望んだからだった。はじめのころは、現在から遠く離れた、生い立ちのことばかりを話した。俺は天国の中心地で生まれたんだ、と彼は自慢をしているように言った。しだいに時は過ぎ、語りの進行とともに彼は成長し、すこしずつ住む位置を中心から辺境のほうへと移していった。舞台が辺境へと移っていくにつれて、彼の語る物語に穴が開き始めた。重要な人物との重要な出来事が欠落しているため、現在に近い時代のストーリーは意味不明だった。そのような欠落だらけのストーリーから、どうにかしてわからない部分を逆算できないか、僕は聞きながらただ聞くだけではいられずに話のすみずみを思考した。隠されている部分には、彼の罪の物語があるはずだった。僕は彼がどのような罪を犯したのか知りたかった。地獄へ落ちるという凄惨な罰をもたらしたのは、どのような罪だったのか。
 彼の語りは支離滅裂のまま、審判が下されるときまで来た。彼の話は途切れ、そのつぎの場面は空中だった。

「それからは。……空を下りて行くだけだった。俺一人だった。ここの屋上に着くまでに長い時間が経っているが、そのあいだに君が聞いて面白いような有意義な出来事はなにも起こらなかった」
「なにも、起こらなかった」
「そう、ここで終わりだ」

 天使の眼前にはまだ踏み入れていない階段が6段残っていた。僕たちは黙り込んだ。ふたりが会話をせず、思考もしていないのは久しぶりのことだった。

 そのあいだも時間は容赦なく進行し、季節の巡りによって早まった夕闇が光の帯をかき消した。彼は言った。

「では、次は君が自分の話をしないか?」

 僕は言った。

「あなたには、まだ語り残したことがある。……。僕は天使の身に起こった出来事をまだ全部聞いていない」

 そう言いきってしまったあと、ただ時間が流れた。夕闇のせいで表情は見えなかった。時間の進行のあと、彼は話の続きをはじめた。すぐに作り話をしているということがわかった。いままで話した出来事を変形し彩色し想像を織り交ぜた、できの悪い架空のスープだった。僕がそのことを指摘すると、彼は黙った。そしてその日は、沈黙を保ったまま終わった。

 翌日、彼のもとを訪れると、彼は階段の最後の段に座っていた。

「……なぜ。なぜ! どうして!?」

 僕は彼に詰め寄ったが、もっと巨大な後悔が僕の背後に押し寄せ、首を絞めていた。

「ありえないだろ? どうしてそこにいるんだ!? もっともっと時間が残っていたはずだろ!?」
「悪かった。きのうのことへの当てつけじゃないんだ」

 彼は黙って僕の足もとの地面を指さした。しかし僕は彼に詰め寄っていて、僕の足もとは彼の足もとでもあった。そこに写真が落ちていた。

「拾おうと思ったんだ。夜のあいだに落としてしまって。……夜は暗いからなにも見えないし、俺はひとりだった。それにすこし恐怖を感じた。一段ずつ、手でたしかめながら探した。なにも見えなかったから。探したけど見つからなかった。君への当てつけじゃないんだ。信じてくれ」

 後悔は怒りに変わっていた。おさまらなかった。時間はたくさんあったはずなのに。さらに望めばもっともっとたくさんあったはずなのに。
 足元の写真を拾って、もう二度と飛び出すことがないようにくしゃくしゃに丸めて、天使の胸ポケットに入れた。悪かった、と天使は言った。「これが物事の自然な進行なんだ。一方向にしか行けない。上がることは許されていないんだから、下りて行くしかない」
 詰りと言い訳に時間を使わないほうがいい、というところで僕らの意見は一致した。最後に残された1段は、屋上ではじめて出会ってから1階の床に降下してくるまでのことについて話した。それからの日々で、彼は彼の話をし、僕は僕の話をし、また彼は僕の話をし、僕は彼の話をした。僕らの会話が僕らの現在地点にたどり着いたつぎの日、彼はいなくなっていた。さらに下へと落ちていったのだ。

「これは地上のものだから、いくら俺が胸に入れていても、地面にはじき出されて浮かび上がってくる」

 そう彼が言っていたとおり、床面にはくしゃくしゃになった写真が転がっていた。そこが、彼が最後に地上にとどまっていた地点であるはずだった。
 僕は転がった写真を見つめた。そのとき、天井の採光窓から降ってくる光の帯が、時間の進行によって定められた規則に従って、その上をゆっくりと通過していくところだった。