タンクメイト 一景

 

 2年目、4年目、そして8年目が危ないとされている。16年目も同じはずだが、そこまで長生きする個体はほとんどいない。危機には予兆はめったになく、ある日服についていた汚れのように自然と身の近くにやってくる。りな子が完全に無気力になってしまい、水槽の中に入れられることが決まった数日前に、僕はりな子の中で何かが崩れ始めるのを見つけた。りな子も僕も、このクラスに通うようになって2年目だった。もしかして、と思って声をかけたが、りな子はこちらを振り向かなかった。りな子の制服の裾は濡れていた。そんなふうになるまで、教室の隅のあの水槽の前にずっと立っていたのだ。どれくらいの長い時間だったのだろう。そのころの水槽は、なかにはだれもいなかった。ただ、ファンが回り、水は清潔に保たれていた。誰かを迎え入れるときのために。たまにイレギュラーな水流で小石が舞い上がり、すぐに底に沈んだ。

 

「先生。河崎さんは、椅子から立ち上がりたくないそうです」
「これじゃあ、まとめ学習ができません」
「先生」
「先生」

 りな子の席をクラスメイトたちが囲み、興味本位から不満、本当の嫌悪にいたるまで、さまざまな声をあげる様子を僕は遠いところから見ていた。りな子はなにも返答せず、うつむいて机の天面を見つめていた。ここから見てもわかるくらい上履きはぐっしょりと濡れていて、「ああ。りな子がこのクラスに通ってくるのも今日が最後だろう」と僕も思った。先生が近寄ってきた。最後に先生に返事をすることができれば、自分の内側には弱いかもしれないが確固とした人間的意志があることを示すことができれば、りな子の運命は変わるだろう。でも、そうなるようには思えなかった。

「先生」
「……」
「きまりですね」
「……」

 決まった。もう戻ってくることのない境界線を踏み越えた結果、りな子は顔を上げて、少し明るい表情を浮かべたように見えた。僕にはそう見えた。いっぽう、りな子を取り囲んでいた積極的な生徒たちや、そこには加わらず、自分の席で遠巻きに様子を見ていた消極的な生徒たちもそれぞれまたべつの感慨を抱いた。驚きとか、興奮とか、嫌悪感や落胆、安心など。少なくとも僕はそのすべてを感じた。一般的な感情だけではなく、りな子にたいして浮かぶ個別の感情もあった。それはいつか本人に伝えようと思った。クラスメイトとしての彼女に伝えるのはほぼ無理だろうが(たとえ今ここで「決まって」いなかったとしても)、水槽の中の「りな子」に語りかけるのであればたいしたことではないだろう。ここには1組から6組まであって、すでに空ではなく中身の入った水槽を持っているのは2クラスある。そうした、「進んだ」クラスでは、水槽の周りに集まって、あるいは水槽に向かって、何かを話している生徒がいるのは珍しい光景ではない。儀式を経て気安い存在になるのだ。すくなくとも完全に無気力なままクラスにいるよりはずっと触れやすい相手になる。エサをあげたり、水を替えるあいだ、ビニール袋に移し替えたり。

 

 儀式はこのクラスにとって初めてで、……けして心地の良い体験ではない。まず、りな子をプールまで運んでいかなければならない。りな子はもう自力で立つことはないので、みんなで交代しながら背負って運んでいく。りな子は濡れているので、僕らの着替えたばっかりの体操着も濡れる。誰かがこっそり吐く真似をする。そいつを誰かが殴る真似をする。局地的なパントマイムが波動のように、一団となって歩くクラスメイト達を媒質に一周し、その間に空気は少しずつ厳かなものになっていく。誰かのふざけを引き継ぐならまだしも、自分から何かを起こそう、面白いことをしようという気がなくなってくる。水槽の中で生きているような緊張感を、ほんのちょっとだけ生徒たちも味わう。その間に、僕の番がやってきて、僕はそれを濡れながら終える。

「やっぱり、怖い?」
「……」

 肩に乗せたりな子の首に、僕は思わずそう聞いてしまう。しばらく歩いたあと、背中からおろすときになって、りな子は返事をする。「こわいよ」

 でもそれは心がこもっていないうわべだけの言葉のように聞こえたので、僕は安心する。僕は脚がすこし震えている。これは体力の消耗だけが理由ではないだろう。

 

 その翌日から、りな子はずっと水槽にいる。水の中に適した姿と大きさになり、水中呼吸をしている。壁の近くまで泳ぎ、近くなったら方向転換をして……、とこれをずっと繰り返している。僕はそれを見つめていることが多くなった。あまりにもそこにいるので、そこに座っているための小さなイスを友人が作ってくれた。椅子は根が生えているみたいに座り心地が良く、「たまには立ちなよ」とその友人にからかわれてしまうほどだった。椅子に座ったときに得られる、すこし低まった視点、あくまで見上げるのではなく、そのレベルで見える高さの物事を美しいと感じるようになった。水槽の中のりな子も、もちろんそのひとつだった。りな子は相変わらず無気力だったが、水のなかでは関係がなかった。

 僕は水槽の内側に張り付く、小さなスネールになる夢を見た。りな子がそばを横切った。いつか何かのはずみで食われてしまうかもしれない。夢から覚めたとき、1週間がたっていた。僕は水槽の外側に座っていたが、どちらがどちらの世界なのか、またその違いに意味があるのか、長い間飲み込めなかった。服に手をやったが、しびれた指の感触では濡れているのか乾いているのかどうかも分からなかった。カレンダーを見つけたが、太陽が強く反射していて、思わず目をつぶった。「ここで4年目を越えることは、」僕は思った。「できないのだろう」