一生懸命な人が好きだった


 私は心から愛した人を取り返すために貯金をする必要があったが、どうしてもなおらない依存症が貯金の計画の邪魔をいつもしていた。そんなときにとなりの部屋に新しい住人が越してきた。二日酔いで迎えた朝のことだった。

「こんにちは」
「こんにちは!」

 私とおなじあいさつの言葉を、私より元気にその人は言った。まるで、過去そういうあいさつを自然にしあうような仲だったと、相手に一度目から思わせるような丁寧なあいさつだった。その人は簡単な自己紹介と、「街の入り口で預けたものを取り返すために、明日からすぐ仕事に励むつもりだ」というような内容のことを私に話した。一生懸命なひとが昔から好きだった。

 

 まてよ。頭のなかの冷静な私が、半笑いになっていまにも恋しようとしている私を止めた。この街とかいう場所にやってくるような人間が、ここでしか更正のチャンスをもらえない人間が、一生懸命な性格をしているわけないじゃないかと。自分にも刺さる事実を私は、味がしないように呑み込んだ。私は昔から、私が好きになるような人のような人になりたかったけど、いつも駄目だった。二日酔いの目がくらんだ。

 その人の自己紹介には大事なものがかけていた。その人自身の名前だ。

 私は肝心の部分がない自己紹介のお礼に、ここの住人がどういうふうにふだんおたがいを、礼儀を込めて呼び合っているか教えた。

「扉に取っ手がついていますよね。ひとりひとり材質が違っていて、それがあだ名とか、役職の名前のようになっているんです」

 朝と夕方、自分でも決まった時間にしか開けることのできない扉だ。

 その取っ手がマホガニーでできていることも教えてあげた。その人は、物知りではないようだった。

 

 毎日、朝と夕方に、その隣人と顔を合わせた。仕事の話や貯金の話をするようになった。「心から愛した人を人質にとられ、ここで更生のために働いているんです。けど、なかなかうまくいかなくて……」と私は、身の上の話までしてしまった。すてきな隣人は、深くうなずいた。一瞬だけ、この世のどこかに助けを求めるように目をそらし、それから限りなく目が合った。

「一緒に、街の入り口で預けたものを取り返せるまで、頑張りましょう」
「ええ」

 私も、隣人が自分の名前を取り戻せるように、深く祈った。会う場所は、マンションの廊下ではなく、飾らない喫茶店やレストランになっていた。隣人が自分の名前を早く取り戻せるように、支払いは私が持つようにしていた。

 

 一度は恋愛で和らいだ依存症は、秋が来るとまた深まっていた。

 隣人と顔を合わせることが、夕方すくなくなった。泊まり込みで職場にいるのだという。

 私は知らぬうちにできた傷を埋めるために、とっくの昔に街の住民登録ブースで別れた大切な人のことを思い出そうとした。四季折々の思い出を。それは私を満たしてくれたけれど、傷を埋める役には立たなかった。

 

 この街には長居するひととそうではないひとがいて、隣人は後者だった。

 街の出口まで隣人を見送りに行くとき、ひょっとしたらこの世には奇跡があるのではないかと、一瞬の間期待をした。世界のどこにいても、期待だけは自動的にできるようになっているのだ。

 私は、街の外側に一歩踏み出した隣人に声をかけた。「最後に」

「最後に、良かったら名前を教えてよ」

 元隣人は力なく首を振って「できないんです」と言い、かわりに丁寧に箱詰めされたプレゼントをくれた。名前を取り返して、余ったお金ほとんどを使って選んでくれたものだという。

 私がそれを受け取ると、ぐずぐずしたさよならの挨拶がそこでおしまいになった。「私もすぐにここを出るから、外でまた会おうね」と約束をした。

 

 頭のなかの冷静な私が、半笑いになって私の支離滅裂さをとがめた。街を出るときには、世界で一番愛した人とまた会えるのに。……そうはいっても、貯金の額は元隣人が来るまえから増えても減ってもなく、むしろ今日のぶんの依存症の慰めでわずかなマイナスになるのだし、中身は食べて無くなるものだと言っていたこのプレゼントがなくなるまでは、仕事には行かず家のなかで過ごすかもしれない。

 夕方の門限に家に帰ると、しばらくして扉の鍵の閉まる音がした。私はたぶんずっとこのままだろう。あてのない期待と怠惰、そして自分を傷つけることを許してくれる街のゆるいシステムに感謝をしながら、プレゼントにかかっていたリボンを外した。