100億年目のバレンタイン・デー


「まったく、バカげてるぜ。神様の質で、世界の運命は決まっちまう」

 間相互世界旅行は初めてではなかったが、転移ポートから出てすぐさまそんなことを言われたのは初めてだった。私は隣人世界のオペレーターに挨拶をした。そのあと、世間話をする。私のほうの世界ではさいきん、こんなことがあった。あなたのほうの世界では、どうなんですか?

「見てのとおりだよ」

 オペレーターは皿の上に山盛りになったチョコレートブロックを私に勧め、席を立ってサモワールからポットにお湯をそそいだ。

「そちらのほうの世界ではどうか知らないが、俺たちの神様は、点数をつけるんだったら、0点ではないんだが、満点でもなくて、……なんていうのかな、とってもうっかり者なんだ。昨日だって、100億回目のバレンタイン・デーに、とんでもないものを作ってしまった」

 彼は紅茶を一口すすり、重大事の発表にふさわしい威厳のある間を作ったあと、続けた。

「世界の終わりまでなくならない量のチョコレート」

 包装紙に包んでもらったチョコレートを片手に、私は通りへと出る。信号待ちをする人、バス停に並ぶ人、……だれもが片方の手に包んだチョコレートを持っていて、何分かおきにそれを口もとに運んでいる。楽しくもなさそうだが、嘆いている様子でもない。ただ、呼吸をするように、自分に割り当てられた分のチョコレートを消費している。たまに口の周りをぺろりと舐める。あるいはふき取る。ひとそれぞれだ。

「食べなければ無くならないから、食べてるんだよ」

 ぼんやりと人々の様子を見ていると、社交的な通行人が私に声をかけてきた。

「どんなに莫大な量のチョコレートだって、ひとりひとりが食べていけば、ひょっとしたら食べきれるかもしれない。……この世界の神様は人間のことを愛しているんだ。やりかたはへたくそだと思うけど」

 

 この世界での私の家に帰るまえに、すこし気になる場所があったので立ち寄ってみることにした。家の近所に最近、若者がふたりで経営するちいさなチョコレートバーができていたのだけれど、そこは大丈夫だろうか。とつぜん神様から贈与されたチョコレートのために、この世界のあのふたりは、職業人生上の危機に陥っていたりはしないだろうか?

「あら、いらっしゃい」

 いらない心配だったみたいだ。チョコレートバーには大行列ができていた。どうして、こんな世界でチョコレートバーに大行列が? 濃いめの紅茶を出すお店にでも業態転換したのだろうか? チョコレートをかじりながら並んでいるうちに列は進んで、店のなかの様子を覗くことができるところまできた。なるほど、そういうことだったのか。私はカウンターのなかの若者に挨拶をして、自分のチョコレートブロックからひとかけらを切り出した。数分後にそのチョコレートは、ビスケットの表面にコーティングされて戻ってきた。「おつりはいいよ」

「ありがとうございました。またおこしを」

 家に帰ると、家族が待っていた。冷蔵庫にあったチョコレートを溶かし、牛乳とスパイスを加えて飲み物を作る。私にとっては一泊の旅行だが、こちらの世界の人々にとってはこれから毎日がこれなんだろう? ちょっと大変だね、と思っていたことを告げた。「たしかに大変だな」私の家族は苦笑いをしたあと、こう答える。

「悪いことばかりではないよ。世界の終わりまでなくならない量のチョコレートがとつぜん現れてから、こちらの世界では、全員がただひとつのことを考えているんだ。全員が、たったひとつのことを。……それはいままで、この世界ではいちども起きたことがないことなんだよ。たったいちども」

 

 たしかに、私の世界でもいちども起きたことがなかった。

 

 翌日、私はチョコレートをお土産に持って帰ることにした。出発までのほとんどの時間が費やされ、オペレーターの手助けもたくさん借りた。なんとか転移ブースに詰め込めたくらいだった。しかしこれは私の帰る先の世界では、街全員の人々に配れば、それぞれひとかけらずつくらいにしかならないのだろう。そういうことを考えながら、間奏後世界転移装置の起動音を聞いていた。