カエルを降らせる

 

 阿部和重さんが書いた『シンセミア』という小説がある。山形県にある地方都市を舞台に、いろいろなバックグラウンドを持つたくさんの登場人物がちょっとずつ関わりあいながら、町のいろいろなところでいろいろな物語が進んでいく。

 

 特定の主人公や特定のメインストーリーを持たず、かわりに人々や物語たちの複雑な絡みあいを見ている側は楽しむ。「あ、こっちの話がこの人物を通じてそっちとつながるのか!」「え!? ここのパートでさりげなく語られた事実を考えると、あそこのパートのあの事件はこういうことなんじゃ…」という感じに。

 そういうお話なのだけど、物語の終盤近くで、町を大水害が襲う。それぞれ絡みあいながらも、これまでは微妙に違った世界のなかで生きていた主人公たちが、水害という、ひとつの、それまでの一切のドラマを変化させてしまうような破壊的な現実に直面することになる。

 

 ばらばらだったたくさんの物語を、一気にひとつのまな板の上に乗せ、そのうえでそれを利用した面白い物語展開を次々に切り出し、盛りつけていく。そういう物語構成上の大技を、同様のことをとつぜん、なんの脈絡もなくいきなり空から大量のカエルを降らせる、ということで成し遂げたとある映画からひっぱって、僕は勝手に「カエルを降らせる」と呼んでいる。

 

 そして僕はこのカエルが降るタイプの物語が本当に大好きなんですよね。あまりカエルが降ることはないのだけれど、たまたま読んでいる本や見ているドラマが、カエルが降りそうな感じだと、待ち構えながら楽しんでしまう。たくさんの人々の人生が、脈絡なくつながって、ひとつの観点のもとに描き出されるということが、奇跡のように思える。

 各自がばらばらに生きていて、たまにすれ違ったり、クラスメイトになったり、仲良くなったり嫌いあったり、集まったり疎遠になったりするこの現実では、起こりようのないことじゃないかと。

 

 ということで最近の新型コロナウイルスワールドには不謹慎だけどちょっとわくわくしている。

 SNSで動向を追っている友達が、ふっと「マスクだるすぎる」とか呟いて沈黙する様子とか、ふっと「帰省したいけれどおばあちゃんがいるから心配」とか呟いて日ごろの仕事の話に戻るところとかが、なんとなく、ばらばらだったそれぞれの世界が、ひとつの切り口によって関連して語られているような感じがする。

 

 カエルを降らせるタイプの物語の多くは、カエルが降ったところでクライマックスに突入し、カエルがもっとも強く降る場面でカタルシスのピークを迎え、カエルが上がるとあとはエンディングを残すのみとなる。

 カエルがすっかり上がってしまうと、ひとつの文脈で語られていたそれぞれの人々と物語たちは、もとの並列して存在する状態に戻る。たぶん現実も、そういうふうになるのでしょう。