自分のプロジェクトを他人と共有できない

 

 残業中に起こったひとつの出来事の結果、今日という日は最終的に、自分の短所が自分にむかって牙をむいて襲い掛かってくる日、という位置づけになった。

 あまりはっきりと言語化しては来なかったが、僕は自分のプロジェクトを他人と共有することをとても難しいと感じている。今日起きた失敗にはいろんな要素があり、ほとんどは僕の関与の外だったのだけど、もし僕に自分のプロジェクトをわかりやすく人に伝えることができる、という美点があったのならば、そこでうまくリカバリーが効いて巻き返せたはずの一日だったのだ。悔しがっていてもどうしようもないことだけど、まあ悔しい。

 

 いろんなひとによく、「どういうふうに生きていくつもりなの?」とか「休みの日はなにしているの?」とか「今日これからどうする?」といった質問を聞かれることがあるが、今日の失敗と共通する理由のためにこれらの質問にうまく答えることができない。

 毎回「いや~、なにも考えてないです。どうしましょうかね?」と適当さと怠惰さ(このふたつも僕の明確な短所である)に任せたふわっとした回答をしてしまうのだけど、もちろん、なにも考えていないわけはない。本当になにも考えていないのだったら、そいつは人間のふりをしたゾンビだ。

 

 世の中には自分の手に負えない不確定要素があり、人の人生はそれらの不確定要素で「ほとんど」決まってしまう。けれど、すべてが決まってしまうわけではなく、どんなに運命に翻弄された人生であっても、ちょっとくらいは自分のしかたで息ができる。息の続く間すべてを使えば、多少は自分の意志で物事の進む方向を変えることができる。

 

 …という、大学時代に受けたとある講義、ナチス時代のドイツの庶民の暮らしを題材にした歴史の授業のメインメッセージを、当時20歳だった僕はいまに至るまで、かなり真面目に受け取っている。生きるために立てる大小さまざまなプロジェクトの、根本的な前提がこれになるくらいには。

 降りかかってくる不確定要素にたいして、それに応じて目論見に大きく手を入れる用意をしていると同時に、その不確定要素との付き合いかたに対して指針と自信を持っている。…そういう状態を、僕は「プロジェクトが立った!」と感じて、そうなれば進んでいく。

 だけど、さあ実際に具体的に個々の場面でどうするのか、なぜこういうふうに進んでいてもOKだと思っているのか、僕は周りの人にたいしてぜんぜん伝えられないのである。進むことができるのは素晴らしい。けど、それを説明できない。

 

 身体ではわかっているんだけど、言おうとするとうまく言えないし、他人に説得するようにつきつめて考えようとすると自分でもわからなくなってしまう。わからないんだけど、プロジェクトは確かに立っているはずなのだが、と思う。

 「いや~、なにも考えてないです。どうしましょうかね?」、そう答えてしまって嘘ではもちろんないけれど、誠実な答えでもない。

 

 就職活動に困難を感じていたのも、大学のサークルではじめてやったプレゼンで先輩に「君のプレゼンは面白いけど、なにも伝えようとしていないよね」と言われたのも、人生を共にする家族を作りたくないのも、人生の節目にだれかに相談するのを嫌うのも、物を作るときにひとりになりたがるのも、おおもとの原因はこれなのでしょう。

 

 もちろんひとりでできることはたかがしているので、なにかをしたいと思えばこれは乗り越えなければいけない短所になる。乗り越えるためのプロジェクトは……、まだ立っていないけれどそれは、これまでできなかったことをすこしずつ、下手でもやっていくという地味で地道なものになるでしょう。もし「こういう感じで進めばOK」と思えるくらいになったら、どなたかこの短所克服プロジェクトのお話を、聞いてくれる人がいたらよろしくお願いします。