2018年のM-1グランプリをなんとなく見ていたのですが、ひとつ、感銘を受けた漫才がありまして、それがこの年準優勝となったコンビ「和牛」の1本目のネタ「ゾンビ」である。
「もし俺がゾンビになったら銃で撃って殺してほしいんだけど、本当に殺せるか?」という入りから掛け合いをして、終盤3分の1くらいでゾンビになった状態をコントでシミュレーションをする、というネタなのですが、めちゃくちゃ内容が文学的で、見終わったあともずっと心の中に残ってしまっているのである。
ずしっと来た部分その1は、序盤のほう。「ゾンビにになったら殺してくれというのは、相方にしか頼めない。家族に頼むわけにもいかんだろ」みたいなことをサラッというのですが、これが脳のオタク野にグサーッと来ましたね。
たしかに、家族だか恋人だかに「自分を殺してくれ」と頼むのは酷なので、それとは別軸の、しかし同じくらい信頼できる関係性の誰かにそれを託す、というのは言われてみれば非常に理解できる。大切なパートナーだがビジネスライクでもある、という漫才コンビの不思議なつながりを、「ゾンビになったときに殺してくれる」ものとして提示するのはめちゃくちゃ深イイな…と思いました。あなたの推しcpは、ゾンビになったパートナーを殺しますか?
もうひとつ良いなと思ったのが、「言葉をしゃべっているうちはまだゾンビじゃない」という話になったところ。「殺してくれ」の話の流れで、じゃあゾンビになっていくプロセスの中でどのタイミングから殺していいのか?という議題になるのですが、そこで境界として一押しされるのが言葉。「相方が言葉をしゃべっているうちは、相方はゾンビじゃなくて相方なんだよ」と、言うのです。
これもまあただのボケなんですが、漫才を離れて一般論として聞いてみるとすごい話ですよね。壇上でしゃべって人を楽しませることを職業とする人たちが「しゃべれなくなるまでは、相方は相方なのだ」と言うんですよ。
「和牛解散」はなぜ衝撃的だったのか、「実績」「原因」「発表の時間帯」の3つのポイントから考える(田辺ユウキ) - エキスパート - Yahoo!ニュース
和牛の解散理由について、水田信二が「きっかけは、3年程前に気の緩みから複数回の遅刻が重なったことでした。加えて漫才のパフォーマンスにおいて川西の要求に応えられないことがあり、漫才への取り組み方について川西との差を感じるようになりました」「相方に対して意見することができなくなり、楽しかった漫才が苦しいだけの毎日になっていました」と説明。川西賢志郎も「(水田の)遅刻が続いたことがきっかけ」とし、「徐々に彼を信頼できなくなり、節度を保てず厳しく言葉をかけることもありました。それが彼を苦しめることに繋がり、求めるような漫才もできなくなってしまいました」と記述。
この「和牛」というコンビ、近年解散しているのですが、結成からその後の快進撃、そして突然の解散までを描いたドキュメンタリー作品をつくろうと思う作家がいたら、この「ゾンビ」という漫才を主要なモチーフとしてストーリーを組み立てたいという欲求にあらがうのは難しいのではないでしょうか。
どれだけ素行に問題があっても、漫才のセリフをしゃべることができているうちは相方は相方なのだと。しかし、それでもパートナーシップに行き詰まりが見え、それを振り払えないと感じたとき、相手の首を切ることができるのはもちろん相方だけなのである。
結論
……とまあ本筋を大きくそれない感想はここまでなのですが、それ以外にも広く「ゾンビになったら殺すか?」という話題の根っこの上で、いろんなことをイメージしたり妄想していたりするオタクな日々を過ごしていました(^q^)
僕自身もけっこうゾンビ化した友人を撃てる側のタイプと思う。ゾンビに感染してしまったら誰かに殺してほしいですよという人はやるんで連絡いただけますと幸いです。^^