莫言とマジック・リアリズム

 

 なんだったか忘れてしまったけれど(たまたまいま忘れてるだけとかではなく、まったく思い出せる手ごたえがない)、なにかで、莫言マジック・リアリズムの話を読んだことがある。

 

 莫言マジックリアリズムで小説を書いていると言われているが、たとえば『赤い高粱』の冒頭部分を読んでみてほしい。おどろおどろしい、世にも奇妙な、ふつうでは考えられないことが起きているかのような描写がされているが、それは文体の上だけのことで、実際にそのページで起きている内容はいたってリアルな出来事である。

 一方、ラテンアメリカの作家が得意とするとされているマジック・リアリズムは違っていて、「摩訶不思議な魔術的なできごとを、まるでそれがリアルな出来事をふつうに描いているみたいな文体で書く」ものである。莫言がやっていたのはマジックリアリズムの逆だったんです。

  ……というような内容のことが書かれていた。

 

 莫言さんのやり方もそれはそれでおどろおどろしく面白いのでOKという論の運びかただったけれど、読んだときに感じた個人的な好みとしては、やっぱりオリジナルなマジック・リアリズムのほうが良いんじゃないかな、と思った。

 「なんでもない出来事を、文体でコーティングして、読むべき価値がある物事のように見せる」ということよりも「やばい出来事を、ふつうのテンションで、それ以上の意味や感触をつけ足さない透明な文体で書く」ということのほうがかっこいいことのように思えたのである。

 

 ただ、文章を媒体として広告主に売る、ということを考えた場合、文体とか書きかたとかスタイルで意味や感触をうまく足せるほうが、商材としての使い勝手がいい。このPR記事も、すごく面白い出来事がとても意味ありげに書かれていて、書いているひとの技術をとても感じる。

 

私は先日、ひとりの男の人と一日を過ごした。

ハンバーグとエビフライの定食を食べて、街をぷらぷら。公園で喋って、銭湯に一緒に行って。そして最後の別れ際、カーディガンをプレゼントしてもらった。

これはたぶん、デートだと思う。
ふつうにデートだと思う。

ただひとつ、ふしぎなのは、私もその人も、お互いの名前を一切、呼ばないこと。この先、また会うかどうか、わからないこと。そして、私には帰る家があるけれど、その人にはないということ。

 「私には帰る家があるけれど、その人にはないということ」。……起きている事実に、これだけきれいに感触を乗せられる技術。

 本当にすごいのだが、同時に、このスタイルで書くことができてそれでよいPR記事が書けることの、裏の残酷さを感じる。

 

 そのあとに、「演劇制作のリアルでブラックな日々」を読んだ。演劇製作の現場の、そんな摩訶不思議なことがまかり通るんだ、となるような出来事が、

 

忙しい時に出来なかったことをじっくり丁寧に時間をかけてやっています。
この日記を書くことができたのも、時間が出来たからですし、書くことによって自分を客観的に見つめることができました。
鬱の人に上手く書くことではなく「ただ書くこと」を薦めていた坂口恭平さんに心から感謝いたします。
以前何度も書こうと思いながら書けなかったのは、上手く書こう、格好悪いことはしたくないというつまらないプライドのためでした。
ここまで堕ちて(笑)、無職無収入になって、なにもなくなってしまうと、もう恥ずかしいことも少なくなりました。もちろんプライドはありますが、今まで恥だと思っていたことが恥ずかしいとは思わなくなりました。
私はプライドの使い方を間違っていたのでしょう。

 ……と最終回で述懐するとおりの、内容にあまりつけ足すことのない文体で書かれている。

 

 いまのところは、読み物として*1面白いのは、個人的には「演劇制作のリアルでブラックな日々」のほうだと思うし、どっちか1つリンクを踏むなら、それをおすすめします。

*1:ここであげた2つのnoteは単なる読み物として以上のものとして受け止められることを想定して書かれていると思うので、「読み物として」に縮減しちゃうのはあまり読者として適切な態度ではないが。