菜食主義を目指して

 

 僕はとてもヴィーガンの考えかたに共鳴しているので、食べないで済ませられるときは肉を食べないで済ますように心がけている。……とはいえその判断基準は極めてゆるゆるで、なんか「野菜切って炒めるの面倒だな…」と思ったくらいですぐ総菜(肉が入っていることがほとんど)に手を伸ばしてしまう。

 

 「肉を食べないほうがいい」という考えかたは日本ではあまり市民権がないが、正直理屈の上ではめちゃめちゃ正しいと思う。「自分の望みに反して食用として殺害される」という経験を味わわせていい相手としてはいけない相手はどのように区別されるのか、という問いに対してヴィーガン側のいう「苦痛を感じる能力がある相手にはだめ」という答えが非常に論理的に明快で、しかも射程も広く*1、めちゃくちゃ魅力的で自分でも採用したくなるようなものなのである。

 

 個人的には、以下のような仮想的なケースを考えたとき、「やっぱり肉食はなるべくしないほうがいいっぽいな」と思うようになった。

 AコースとBコースの食事が選べるとして、Aには肉が使われているが、Bには使われておらず、またBを作る際にはどんな動物もそのプロセスのなかで苦痛を感じていないとする。このふたつのコースはうまく作られていて、食事の満足度や食事によって得られる主観的経験はどちらを食べても「まったく」同じだとする。違うのは、動物が苦しんでいるかいないかだけである。また、コースはどちらも日替わりになっているので、飽きが来ることもないとしよう。

 もし、肉食が倫理的に全く問題ないという直感を持っているのであれば、AコースとBコースは無差別であり、どちらかをとくに選ぶ合理的理由はない。逆にどちらかが望ましいと感じるのであれば、その人は動物の権利を尊重する考え方があることになる。

 

 ……僕はとくに動物の権利に関心があるほうだとは思っていなかったが、この仮想的なケースではBを選ぶ以外の選択肢はないような気がする。

 ということは、ふだんはほかのいろいろな理由があって肉食をしているけれど、心のどこかに「肉食はやめたほうがいい」という直感を持っていないわけではないのだ。

 

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 そして逆に、「肉食は許容できる」、――とくに「現在行われているような形での畜産が許容できる」というのを説得力ある形で主張する理屈を考えるのはほんとうに難しい。肉食を擁護するまともな理論はひとつもないと言っていいんじゃないだろうか。

 ヴィーガンにたいして「じゃあ食べられるレタスの気持ちはどうなるんですか?」とまぜっかえしているひとをよく見るが、あれもただいじわるなだけではなく、ウィーガン側の理屈が強固すぎるのでもうそれくらいしか言うことがないのである。

 

 いまは肉を食べる人が多数派なので、ヴィーガンも肉食派もどっちもどっち、人それぞれだね、……みたいな感じになっているが、ヴィーガンが多数派になった状態で肉食派が自分の正当性を主張するのはほんとうに難しいと思う。個人的にはイーブンくらいの状態で肉食側を持ってディベートに参加するのもちゃんと怖い。

 

 ただ理屈の上で正しいだけではなく世界の情勢もヴィーガンに味方している。このまま人口が増えていけば、いまのまま畜産を続けることは難しくなり、ある時点から思想とか関係なくふつうに庶民には肉は手にするのが難しい食品になるだろう。「理念として説得力がある」と「社会の流れ上そうなっていくしかない」が両方揃った状態で、スタンダードが変わっていくのを覆すのはほんとうに難しい。

 肉が食べたい人はまじで「肉食許容論」を確立するか、世界の農業生産を一新する新技術みたいなのを開発しないと、100年後くらいにはもう肉は絶対食べられないのではないか。

 

 もしかしたら40年後くらいにはもうそうなっているかもしれないので、いまのうちから肉に対する精神的依存を減らそうとしているのだけど、なかなかうまくいかない。

 個人的にはやっぱり、肉=主役として、いろいろな面で優遇されてるのが卑怯なんじゃないかと思う。味つけとか、注ぎ込む手間、主の位置と従の位置に置かれる頻度みたいなのを調整すれば、肉も魚もキノコも野菜も穀物も、おいしさとしてはだいたいいい勝負になるんじゃないだろうか。

 

 主菜としてまじでおいしく料理されたキノコや野菜や穀物が簡単にそのへんで手に入るようになれば、僕の採食ライフもかなりはかどると思うので、……まあ簡単ではないとは思うけど、すこしずつシフトがあるとうれしいなとずっと思っている。

*1:宇宙人などにも適用できる。