いくつか考えたこと

 

 

 いくつか考えたことがあったので問いの部分だけちょっとメモをしたい。

 

 作品は作者の手を離れた時点で独立したものとなり、作った作者本人でさえもその作品の解釈に対して(作者がこう言うのだからこの解釈が正しい!というような)ワンランク上の立場からものを言うことはできない、というのは有名で、そう考えている人もそれなりに多い考え方だが、そのおおもとは「いったん出版したものには作者でもなかなか手をくわえられない」という事実があるように見受けられる。

 はたして電子配信の時代、作者が手元のコピーに手を加えると同時に読者それぞれの手元にあるコピーも同時に改変することができるのが一般的になった時代に、作者はより良いものに、より適切なものにとアップデートしていく責任を作品に対して持つのか?

 

人類は全体的に見ても、創作者のうち少なくない部分が創作活動や創作の際にやってくるインスピレーションを狂気や妄想、幻覚と関連するものだとみなしてきた。一方で、妄想や幻覚で特徴づけられる疾患やそれに対する偏見・差別によって困難な状況に置かれている人々がいる。

 創作者が自らの創作に引きつけて考えている妄想や幻覚は、実際の疾患の症状としてのそれとどのような点で似ていて、どのような点で異なるのか? それを踏まえて、そのふたつは区別されるべきものなのか? 創作者が自らに引きつけている妄想や幻覚を実際の疾患の症状と区別しなかった場合、それは「盗用」にあたるのか?

 

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・あなたは事件記者。ある凶悪な事件を起こした犯人が、常識的には理解できない感覚や理屈を犯行に及んだ理由として供述した場合、ある種の偏見や差別を助長するかもしれないという視点から、供述内容を伏せたり、多少正確ではないがまあ間違いだとも言い切れない穏当な内容にしておくべきだと考えるか?

 

・そもそも、修正前の「ルックバック」はどのように統合失調症者を「犯罪を起こす」という偏見と結びつけたのか?

 個人的には「作中の描写からは犯人が統合失調症を患っていると断定*1はできない(かもしれない、くらいが言えるだけだと思う)。かつ、現実の京都アニメーションの事件を起こした犯人も統合失調症と結びつけることはできない。なので、『ルックバック』が現実の京都アニメーションの事件を示唆しているというところまでは言えるにしても、それだけでは『統合失調症のひとが犯罪を起こす』という印象を読み手に与えるまでには至らない*2」と考えていた。

 だが今回、「統合失調症のひとのステレオタイプの表象を、『ルックバック』という作品が、現実の事件の犯人像と結びつけている点で不適切」*3という話を聞いてたしかにそれはそうかもなと思った。

 今回のケースの食い違いは、前者が「統合失調症と、京アニ事件のような事件一般」、後者が「統合失調症と特定の京アニ事件」を結びつけているから生まれているように見えるが、生まれたあとなにがどうなって議論の形や最終的な結論を分けているのかはよくわかっていない。たぶんここの表象がどう結びついてなにを示唆しているかだけでも独立したほかの主張があるだろう。

 それを踏まえて、物語のようなこみいった表象は、一般にどういうふうに現実の物事同士の結びつきを示唆するのか?

*1:あるひとの断片的な描写から精神疾患だと言ってしまうとそれはそれでステレオタイプを当てはめるという差別になってしまうので、言いにくいのではないか。

*2:むしろ、犯人に対する憎悪の表現や、憎悪を喚起するような被害者の苦痛や遺族の悲哀などの感情喚起的な描写も全部省いていたので、だいぶ配慮されていなとすら思った。

*3:この説をとる場合、一個前の脚注で書いた配慮は、配慮としてはぜんぶ無効になる。