追悼飛行


 気まぐれにわたしは自分の意志でエルロンを倒し、機体を空中できれいにロールさせた。眼下にはどこまでも海が広がっている。そういう空域だ。めっきり飛ぶもののすくなくなってしまったこの青い惑星でも、さらにだれもいない空域。だれもいないのをいいことに、わたしはオートパイロットを完全にやめ、しばらくのあいだ曲芸飛行に興じた。自由に動けば動くほど、内側にはむなしさが膨らむ。やはり、空の主役は操縦席に座る飛行士なのだと思う。

 

 そんなわたしにダンスを誘うように、印象的な動きをするべつの機体がレーダーに映った。わたしたちは135度くらいの角度を作ってすれ違い、わたしが様子をうかがっていると相手方は急旋回してこちらに向かってきた。私は速度を微妙に調整した。向こうは追いつくのに手間取ったが、30分もすると、ふたつはたがいの巡航速度からおなじだけ譲歩した速度で隣りあって飛ぶウィングメイトとなっていた。

 

 わたしは無線を繋いだ。わたしはそいつと、空のお決まりのあいさつを交わした。挨拶だけでは終わらず、そいつは無遠慮に話しかけてきた。

「なにをしているんだい? それにしてもいい飛行だった」
「することがないんだよ。 だからこんなところまで来た」

 

 することがない、というのは半分は嘘だった。わたしには墜落するまでの残りの時間をかけて絶対に成し遂げようと決めているひとつのことがあった。することがない、というのは半分はほんとうだった。あの決定的な出来事が起こってから、わたしの飛行にはなんの意味もなかった。

「こんなところまで来るのは久しぶりだよ。どこまで行くつもりなの?」

 私は目指す空域と、その空域を代表するウェイポイントの名前をこたえた。「それはいい。ぜひ同行したいね」とそいつは言う。どちらにせよ、そいつが行くと決めたのなら、わたしにそれを邪魔する手段はない。空は自由なのだ。文句をつけることくらいはできるかもしれないが、……それだって、向こうが無線をつなげている間だけだ。

 

 しばらくのあいだは平穏に飛んでいた。西へ傾こうとする太陽を追いかける飛行だった。時間は引き伸ばされた。いまはもういない飛行士のことを思い出す。時に逆らって進む飛行や、逆に時を加速させて進む飛行が嫌いで、いっしょにいる間はもっぱら、緯線に沿って飛ぶことばかりを繰り返していた。経度をずらすときは最大限の慎重さが求められた。
 一時間で進んでいい経度の最大値を話し合って決めたときのことを思い出す。わたしはどちらかというと、時を操っている感じのほうが好みだったから、最大値はわたしの大幅な妥協が反映されたものだった。けれど、操縦席であの飛行士はほっとしたように笑い、「わかるだろ? 眠れなくなるし、体調が悪くなるんだよ。昼が24時間も48時間も続くのは悪夢だし、夜を3時間で越えたりすると、本当に最悪なんだ」と言い訳を繰り返すのを聞いているのがほほえましくて、大幅な妥協はまったく苦ではなかった。そもそも苦というのが、わたしにとっては二次的なものだった。そして苦は、飛行士にとって、――飛行士たち一般にとって一次的なものだった。わたしは、自分では決しておなじようには感じることのできないそれを、いつもシミュレーションしようと試みていた。

 

「きみは、苦しみを感じる?」

 つかのまのウィングメイトに問いかけてみたが、返事はなかった。しばらくして「……申し訳ない、ちょっとうとうとしていた。……なんの話だった?」と帰ってきたが、その返事がそのまま聞きたかったことの答えになっていたので、わたしはなにも返さなかった。「この年になると、きゅうに眠くなってしまうんだ」を言い訳のように無線の向こうの人は言った。

 

 目指すウェイポイントが近づいてきた。わたしは次の質問を考えた。陸地の大半が水没して、残されたいくつかの島すべてが滑走路を備えた補給基地となり、だれもがひとり乗りのコクピットで生まれてコクピットで死ぬようになった、人類の文明の晩年。――そこから数えても、とても長い時間が経っている。もう、そんなに多くの人間は空には残っていないだろう。……聞いておくべきことがあるのではないだろうか。

 

「死は苦しいものですか?」

 無線の向こうの相手が、居眠りをしていないことを確かめてから、わたしは質問してみた。無線の向こうの人は、「……諸説ある」とだけ言って、黙り込んでしまった。

「もし、死後に死者の望みをかなえるものがいたら、死者の死の苦しみはすこしは和らぎますか?」

 気流が連れてきた雲がわたしたちを包み込んだ。わたしは、自分の抱えている無人コクピットのむなしさに押しつぶされそうだった。

 

 答えを待つまでのあいだ、飛行士と別れたときのことを思い出した。活動を止めてしまった飛行士を地上に下ろすと、しばらくして飛行士は灰の塊になって戻ってきた。操縦室を空っぽにしたまま、わたしは離陸した。わずかな重さの違いが、飛行をまったく別のものにした。緯線に沿って飛び続け、……その必要がないとわかると、いままで出したことのないいちばんの早さでわたしは西へ向かった。一日のあいだに無数の昼と夜を横切った。

「それをすこし、私も考えていたんだ」

 無線の向こうから、返事があった。わたしたちは天空へ向かって雲を突き破り、太陽が入れ替わりに西の果てに沈んでいこうとするのを目撃した。

「こんなにずっといっしょにいてくれた私の飛行機が、死んだあとは私の棺桶にかわってしまう。……おたがいにとって不幸なことなんじゃないかと思っている。それだけが気がかりだから、もうすこし生きているよ」

 

 ウィングメイトが翼を振って、それはつかの間の同行の終わりの合図だった。海没してなお働き続けるウェイポイントが送る信号が、ここが目的地であることを告げていた。ウィングメイトは大きく旋回し、北のはずれのほうへ機首を向けた。無線が届かなくなってしまうぎりぎりになって、わたしはおおきく呼びかけた。

 

「わたしの飛行士は、自分の生まれた惑星と運命を愛していました。だから、灰をこの星の上のいたるところに撒いているんです。美しいところのすべてに。それが、飛行士の望んでいたことだと思って」

 届いたか、届いていないかはわからない。レーダーももはやあの飛行機を見失ってしまった。私はコクピットの窓をすこしだけ開けて、気流のなかでくるっと一回転した。

 

 散布された灰は、夕焼け色に染まる海へゆっくりと降下していった。そのあと窓をしっかりと閉じ、わたしはつぎの目的地を探した。