神殿へ


 雨が降りだして、僕は縁起が悪いな、と思っていたものを、カツは「好都合だな」といった。集合場所にはもう5人が集まっていたが、最後の1人はなかなか現れなかった。集合時間とはべつに、もうひとつ決めていた時間が近づいてきた。そしてその時間が来たときに「行こう」と皆に促したのもカツだった。はじめて、カツというのは、……なんというか、ひととは違うやつ、とくべつなやつなんだと思った。もし家内奴隷の身分に生まれたんじゃなかったら、カツは政治家になっていた可能性だってあるんじゃないか。

 

 トモリが自分の下痢のなかで死んで、そのなきがらを火葬園まで7時間かけて運んだとき、僕たちのなかにはなにか怒りのようなものが、「物事がこうであっていいはずがない」と思うような気持が湧いていたんだと思う。そのとき、仕事の進み具合を確認するためにボイスレコーダーが装着されているという車を停めて、駐車場ですこしだけ黙とうをしないかって言いだしたのも確かカツだったと思う。トイレにこもってばっかりで仕事をしなかったトモリは、だれからも憎まれていたけれど、トモリが死んでしまったいま、憎むべきものはおなじ目線にいるものではなく、もっと上のほうにあるものだと皆が思いはじめていた。

 

 けれど本当に「逃げよう」と思って計画を練りはじめたのは僕をふくめてたった6人だった。大勢いれば、そのぶんだけ多くのひとが捕まらずに神殿へ逃げ込めるのに。自分の人生をリスクにさらす勇気がある同僚はそんなに多くはいなかった。捕まったら、主人による私刑を受けたあと、……もうここにはいられない。もっと悪い待遇のところに売られるだろう。実際問題、ハウスキーピングの労働なんて、奴隷に許された仕事としては、最上級、格段に楽だった。逃げて、神殿までたどりつけて、神殿の保護を得られたとしても、自由人の資格を得るにはそれから5年かかる。難関の試験を突破しないといけないし、それには勉強もしないといけない。僕にそんな集中力や自制心があるとは、とても思えない。

 

 集まって、逃亡の意志を確認しあった6人の仲間のうち、結局1人はタイムリミットまでにやってこなかった。僕らはそれぞれの車に乗りこんだ。……1人、1人だけ車を用意できなかったやつがいて、そいつはそいつの人生の楽しみでお気に入りだったマウンテンバイクに腰を掛けていた。「こっちのほうが小回りが利いて、逃げるときには便利なんだよ」って自分でも信じてないことを大声で言うそいつがみじめすぎて、僕らのだれもがちゃんとした声をかけてやることができなかった。通話もそいつとは最初からつながなかった。雨脚が強まっていく日没前、僕ら4人はエンジンをかけ、緩やかにスピードに乗ると、すぐにマウンテンバイクは見えなくなった。トモリが死ぬまえに、なんども息を吹き返して下痢をしていたみたいにそいつは、信号で僕らが止まるたびに手を振りながら最後列につけたが、しばらくしてそれもなくなった。

 

 「見つかるまではいっしょに行くんだろ」とラナが言った。「夜更けまで距離を稼いで、それから散らばろう」とカツが言う。「全員逃げられるといいな」と僕が言った。「自由人になって、どこかでまた会おうぜ」とエイムが言う。これが僕たちのすべてだった。

 

 つかずはなれず、固まりになって片側7車線の中央高速道路を進むぼくらの一様に黒くて軽い自動車は不審に映っているだろうか。「奴隷だってことは車種でばれてる」とカツが言う。「あとは“逃亡”奴隷だってことがばれてるかどうか、お節介なやつが通報してるかどうかだ」中央高速道路は国土のなにもないほうへ向かって続いている。あるとすれば、神殿くらいか。みんな毎日祈っているのに、この国の宗教はどうしてこんなに端に追いやられているのだろう。

 

 ラナの車の加速がおかしくなったのは、となりで見ていてわかった。ラナに合わせて、高速道路の自然なスピード流れより遅れて運転するのをカツは嫌がった。嫌がりを示す沈黙が、グループ通話画面を通じてそれぞれの孤独な運転席にひろがり、目に見えるほど大きな亀裂を作った。高速道路で目立ってしまえば目立つほど、主人の雇った捜索隊に見つかる可能性は高まる。見つかったら、なけなしの私有財産はすべて没収されるだろうし、その場で往来にむかって恥をかかされることになるかもしれない。主人たちは所有する奴隷の逃亡を恥だと考えるし、恥は恥をかかされた相手にそれ以上の恥をかかせることで拭えると信じている。奴隷に対する行動は古い法律で規制されているけれど、逃亡奴隷に対してはその限りではないという新しい法律がその上に加わっていて、新しい法律は古い法律より尊重されている。世のなかはすべてそうだ。奴隷だって、老人より若者のほうが高値なのだから。

 

 ラナの車は走行不可能になって、路肩の待避レーンにとまった。仲間の二台は車線を右に移った。僕は車線を左に移り、待避レーンをすこしバックしていきすぎた分の距離を縮めた。運転席の窓をノックしてラナの表情を確かめた。ラナは考えられるかぎりのすべての語彙を使ってカツを罵った。そのあと、それが最後に手のなかに残されたひとつの言葉であるようにして、僕に言った。「助けてほしい」そして、なにもない手のなかをなにかで間に合わせて埋めるみたいにこうつけ足した。「ずっと前から、信じられるのはお前だけだって思ってたんだ」

 

 僕はラナを助手席に乗せて、はるか先のほうを走っていると頭ではわかっているふたつの車を追いかけた。手元には僕のスマートフォンがあいかわらず通話を続けていたが、声が向こうから届いてくることはなかった。ラナのスマートフォンはカツを罵ったときについでに高速道路の高架の下に投げ捨てられていたので、前を行く二人とつながることのできるのは僕のこの緑色に光る画面だけだった。カツに言い渡されるであろうさよならがこわくて、僕からはなにも言えない時間が長く続いた。

 

 助手席のラナはあるときまでは黙っていたけれど、そのあとは覚悟を決めたみたいに話しはじめた。先ほど聞いた、僕のことを信用しているという言葉に、説得力を持たせるための舞台装置や背景を取りつけるみたいだった。ラナはこれまでのことについて話し、これからのことについて話した。僕は高速道路の単調な空間と時間の移り変わりが、僕に当然押しつけてくる眠気と戦いながらその話を聞いていた。ラナは運命を分かち合うことの大切さと効率の良さについて話した、とくに奴隷は、1人でいるより2人でいるほうが幸せに生きれるのだということを。エピソードが証拠として引用され、幸せは分けあって2倍に増やせるということと苦しみは分かち合って半分に減らせるという、僕には両立するはずがないしか思えないような理が説かれた。その声は通話が続いたままのスマートフォンを通じて、まえのふたりにも届いているはずだった。

 

 僕は追いつくのをあきらめて、ジャンクションのカーブを曲がったが、すぐにそれを後悔した。そのすぐ後に、カツの「見つかった」という小さな叫び声が入り、通話が正式に終わったからだ。捜索隊の努力を空転させる策として、見つかるまではひと固まりに、見つかってからは散り散りになる、というのが僕らの作戦だったから、僕らが離れ離れになってしまうことは、捜索隊に見つかることと結びついている。追いつくのをあきらめたことが、因果関係を逆に作動させてしまって、カツたちを危機に陥れたんじゃないかって、どうしても思えたからだ。

 

 すぐに僕も見つかると思って、下道に下った。僕はいらない、と思ったけど、ラナが運転を代わりたいというので、すこし停まって席を入れ替えた。そのあと検問があったが、予想していないタイミングだったので、ラナと意思の統一ができていなかった。僕は助手席の窓を開けて、架空の主人の名前と用意していた嘘の仕事の用件を言ったけれど、ラナはそれと同時にアクセルを強く踏んだ。そのあとは、神殿までの時間と距離だけが僕らの唯一の関心事だった。

 

 神殿の敷地内に入ってそこにあった段差に座ったとき、同行していたラナはもういなくなっていて、高速道路で東に置いてきたはずの雨雲には追いつかれていた。蒸し暑い雨が降ったかと思ったら、すぐに風の速度も増し、最後には肌寒くて震えるほどだった。トモリからはじめて、はぐれた順に仲間の名前をひとりずつ思い出していると、捜索隊が神殿のなかの僕に気づいて、冷たくもやさしいまなざしを投げかけてきた。

 

 「失った過去の気安さに負けて、あるいは単なる気まぐれに遊ばれて、せっかくまたいだ神殿との境界線を、ふらっと戻ってしまう奴隷がたくさんいるんだ」そうカツが言っていたのを思い出す。僕とカツは逃亡計画の実行までになんども夜中に落ちあって散歩をした。逃亡のことや、逃亡のあとのこと、そして逃亡とは何も関係のないことを話した。その夜に響いていたのはカツの言葉だった。それは昼間の仕事のあいだもずっと反響していた。僕がいま神殿の外に出そうになっているのは、たぶん、カツの言っていた言葉が強く印象に残っているからだろう。

 

 意を決して、神殿の内側へ、屋根のある暗がりへと歩を進めた。けれども、光のあるほう、いつでも出て共通の運命に身をゆだねることのできる出口がこの神殿にはあるということを、そのあとずっと忘れることができなかった。