倫理学、……つまり倫理や道徳について考える学問があり、それによると人間の道徳とはどういうものか、という問いに答える議論は大きく3つに分けることができる。一つ目がカント的な義務論、もうひとつが功利主義、そしてもうひとつが、……まあ、とりあえず今はいいでしょう。さて、話を進めますが……。
大学1年か2年だったころ、一般科目の哲学の講義だったと思う。上に書いたようなことを先生が言ったので、「いや言えよ!! 気になるじゃん!」と思いながら手元のスマホで一生懸命調べた。言いよどまれ隠された3つ目の道徳哲学ってなんかちょっとかっこいいじゃないですか。それが徳倫理学との出会いだった。たしかに、カント的義務論とか功利主義は聞いたことあったけど、徳倫理学っていうのはそのとき初めて知った。そういう意味でとても第一印象が良く、それ以来定期的に徳倫理学の本を読んできた。
神の前での人間の平等を唱えるヘブライズムと人間の不平等を公言するヘレニズム―西洋思想の二大潮流を鮮やかに対照させつつ描き、キリスト教の平等思想を完全否定する。古代ギリシアにまで遡る徳(アレテー)の思想の深部を照射し、現代倫理における徳の再生を説く。
あらすじと書影を見るとちょっと危ないスピリチュアル団体の本のようにも見えるが、中身は非常に丁寧な哲学の本だった。以下がおそらくこの本の主要な主張をざっくりと要約したものになるはずである。
道徳について考えるときに普通に使う、「正しい/間違っている」という区別は(社会的慣習や法に「適合している/いない」という意味で使われる場合を除き)、実は前提を欠いた無意味な区別であり、なぜそのような無意味な区別がまかり通っているかというと、それは個の卓越(人間として「善い/悪い」どちらか?)というところに重点を置いたギリシアの道徳哲学に、ユダヤ教徒キリスト教の、神との契約を遵守することこそが倫理であるという宗教的な新しい思想が誤って接ぎ木されたからである。
この「正しい/間違っている」という区別を安易に置かない、というのは、ほかの2つの倫理学(つまり義務論と功利主義)に比べて、徳倫理学の顕著に違っているところだと、よく言われているような気がする。
「ポジティブ心理学」という心理学の分野、というのかムーブメントというのか、とにかくそういうのがあって、それとなんとなく似ているな、と毎回この話を聞くたびに思う。心理的な異常とか、発達の問題とか、適応の失敗とか、そういった負の側面にフォーカスしがちな通常の心理学研究とは気持ちを変えて、人間が持っている心理的な美点や強さとはどういうものなのか? どうしたらそれを促進できるのか?という形で問いを立てて研究を進める学問分野である、という認識をしているが、その転換が、義務論や功利主義に対する徳倫理学の立ち位置とちょっと似ているように思うのである。
個人的にも、実際に生きていて、正しいか正しくないかを考えるよりは、どうすれば善くなるかを考えることのほうが好きだし、悪人ではないことよりも善人であることを目指したい。
しかし、実際に善い人間というのはどのようなものなのか。この本で出された結論は「人間だけが持つ能力――理性――の働きをよく実現しているような人物」というような感じであり、どの本を読んでも大体そうなんだけど、なかなか使える実際的指針を与えてくれないのが徳倫理学のお茶目なところでもあるよなあ、と思った。