ベンヤミン「歴史の概念について」第九テーゼ

 

 2017年2月に公開した記事の再掲です。「イエーイ!」まで読んだところで怖くなってそれ以降はチェックできていないのですが、不適切な表現・誤った記述がないことを祈ります。

 

 

あまりにも有名で激エモな文章、ヴァルター・ベンヤミンの「歴史の概念について」第九テーゼについて書きます。イェーイ!

 

「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており 、天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのようにも見える。かれの目は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が天に届くばかりに高くなる。僕らが進歩と呼ぶのは〈この〉強風なのだ。

 

ベンヤミン「歴史の概念について」第九テーゼ (野村修訳)

 

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パウル・クレー「新しい天使」

 

「いかなる意味でも文学者で」

僕が始めてこの文章を読んだのは、すみません、いつだったか思い出せないんですし、何で読んだのかもあんまり憶えてないのですが、確か、リチャード・パワーズという小説家の、『舞踏会へ向かう三人の農夫』という作品の、本文中か、それについて書かれた何かの解説のなかに全文引用されていたような気がします。

 

パワーズの上記の小説も、ここ50年くらいのうちに書かれたデビュー小説の中でも、トップクラスに重厚で、めちゃくちゃ評価されている作品だと言われているんで、めっちゃすごかったんですが、付け合わせで出てきたこのベンヤミンの文章も、ものすごくエモくて、「最高かよーー!!」ってなったのを覚えています。

そのあと、ベンヤミンの書いた本を何冊か読んでみましたが(内容はさっぱり覚えていません)、やっぱりどれも最高で、「いかなる意味でも文学者じゃない」のがアドルノだとしたら、ベンヤミンは哲学者かもしれないけどそれ以上に完全に文学者じゃね!? みたいな感じに思っていました。

 

今回、図書館でなんとなく手に取った、『ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』って本を読んで、やっとこの文章の理論的背景がわかり、完全に最高だったので、忘れないうちにメモしておきたいと思います。

 

「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。

文章凄かったし、さぞ元ネタのクレーの絵もすごいんだろうなー、と思って、初めてクレーの絵をGoogle画像検索で見たときは、「落書きじゃん!」と思いました。美術の成績2だったので。

1879年12月18日 - 1940年6月29日(wikipediaより)と、ベンヤミンとほぼ同年代を生きていて、同じ年に死去しています。時代が時代で作風が作風なので、詳しくは知りませんが、多分、退廃芸術展とかにガンガン飾られていたんじゃないでしょうか。

 

とか情報を書くために、いろいろインターネットを調べていたら、ヴィム・ヴェンダースの「ベルリン・天使の詩」って映画があって、ベンヤミンのこの第九テーゼがその着想のもとになったんじゃないか、と書いてあるのを見つけました。「ベルリン・天使の詩」は好きな映画監督の見たことがある映画だったので、「まじか……」って思いました。劇中にベンヤミンとこのクレーの「新しい天使」の関係について語る文章が入っていたらしいです。全く覚えていませんでした! ニワトリなので。

 

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ベルリン・天使の詩

 

くず拾いの歴史家たち

歴史って、なんですかね? ベンヤミンは歴史の中に廃墟の集積、カタストロフィーの連なりを見て取ったそうです。文明の進歩や科学技術の発達、文化の洗練でも帝国の繁栄でもなく、積み上がる瓦礫の山。

いますよね、こういうタイプの人。何事につけても、一番目立つ輝かしいものではなく、その陰に隠れた悲惨なもの、取るに足らないもの、抑圧された被害者を見てしまうタイプ。ベンヤミンはまさにそれだったんだと思います。コンクールで優勝したら、自分のかわりに敗退した人のことが先に気になってしまうタイプ。家系ラーメンを食べたら、旨さより、摂取するカロリーや塩分が人体に与える悪影響を考えてしまうタイプ。

 

瓦礫を漁る、ゴミ拾いの方法として、今村仁司*1ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』(以下、面倒なので『精読』と略記)の18pあたりで、「二分法の無限シリーズ」というベンヤミンの思考の技術が語られています。

 

物事を思考の俎上に載せるとき、どうしても、主題として考えたい部分、つまり光を当てる部分と、そうではなく、光が当たった部分を浮かび上がらせるためには必要ですが、それ自体は影として無視される部分が生まれてきます。ベンヤミンが目をつけるのは、この影の部分、ゴミとして捨て去られた部分です。

その中にも、主題として拾われるべきものが残っているはずです。もう一度、影の部分に対して、二分法を適用することができるのです。影の中でも、取り扱われる部分と、そうでない部分に、そしてさらに残ったごみの部分からも、光を当てる部分が見つかり、瓦礫のなかからくずは手に取られ、いわば取り扱われる価値のある「骨董品」として生まれ変わることになるのです。作業は無限に続けることができます。

 

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「黄金長方形」

 

そうやって、少しずつ違う角度から切り取られた事実たち、陳列された骨董品たちが手元に残りました。

 

実例を挙げて考えてみます。たとえば、戦後日本の独立と発展の歴史を考えるとき、ネガになるのは、アメリカ軍政下に取り残された沖縄の歴史でしょう。しかし、沖縄のアメリカ軍政を考えるとき、取り残されてしまうのは、同じく軍政下にありながら沖縄本島への資源集中のあおりを受けた奄美大島の人々でしょう。しかし、沖縄より一足早くなし遂げられた奄美大島の本土復帰の喜びを主題化するとき、沖縄本島にたくさんいた奄美からの出稼ぎ労働者たちは陰に沈むことになります。彼らが奄美群島の復帰と同時に一気に職を失い、同時に沖縄の人から凄まじい差別を受けていたことを知っている人は、沖縄県民にもあまりいないと思います。

僕はWikipediaをなんとなく見ていたときにはじめて知りました。根暗なので、暇な日は引きこもってWikipediaをただ見る、って趣味があります。根暗なので。

 

星座(コンステレーション

ベンヤミンの理論における、マジですげーな、って思った考え方のひとつに、「形象的素材が概念として機能する」「具象的思考」というものがあります。これが何でマジですげーと思ったのかを、哲学をあんまり知らない人に説明するのはちょっときついので割愛しますが、(逆に詳しい人なら何も言わないでもなんとなく気持ちはわかってくれると思います)、とりあえず、僕がマジですげーとおもったということが伝われば十分です。イエイ!

 

「形象的素材」とかいう術語が出てきていますが、カジュアルな言葉でいうと、たんに「もの」という意味だと思うので、そんな風に理解してくれればオッケーです。ただの、もの、です。ベンヤミンの世界では、「もの」がある配置で集まることで、何かを意味する概念としても機能するんだそうです。僕たちは多少難しいことを話すときには、たいてい、概念を使って会話をしますが、そのときにつかう「概念」の働きを、ものの集まりが果たすのです。(『精読』3~12)そういうものの集まりのことを「星座」と言います。

 

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いるか座だそうです。本当に申し訳ないと先に謝っておきながら言うんですが、これ、絶対俺の知ってるいるかじゃないでしょ、こんないるか、いるか?

 

「星座」(Constellation)という言葉は、日本語だと単に空にあるやつを示すだけの言葉ですが、英語では少し別のニュアンスがあります。いくつかの物事が、たがいにある関係をとって配置されており、その全体(物事と物事間の関係)が、何らかの意味を持って現れているような状態、を指すことがあります。

時間的に同時である必要はないので、少し意味はズレますが、全体として意味を持っていると感じられるような配置、という意味ではシンクロニシティという言葉が近い意味を持っているような気がします。

日本人の感性でいうと、例えば、「戦争に行ってしまったお兄ちゃんがいて、ある日胸騒ぎがすると、目の前を黒猫が通り、台所の湯飲みにひびが入った。だからなんとなく不吉なイメージがよぎる」みたいな状況が、星座という感じになるんじゃないかな、とか思います。

 

二分法の無限シリーズによって析出されたゴミたち、骨董品たち、それをある仕方で配置し直し、「星座」として組み立てることで、我々は歴史について考えることができるのです。なので、歴史の天使は廃墟の前で立ち止まり、なんとか、なにかを組み立てようとしているのです。

 

過去との約束

時間はどの方向に流れるでしょうか? 今を生きる上で、過去と未来、どちらが重要ですか? 未来には、そこに進んで向かっていけるような希望がありますか? それでは、過去には? 未来と過去、変えられるとしたら、どっちを変えたいですか? みなさん。

 

過去という本にはひそかな索引が付されていて、その索引は過去の解放を指示している。じじつ、かつてのひとたちの周囲にあった空気の、ひとすじのいぶきは、ぼくら自身に触れてきてはいないか? ぼくらが耳を傾けるさまざまな声のなかには、いまや沈黙した声のこだまが混じってはいないか? ぼくらが希求する女たちには、かの女たちがもはや知ることのなかった 姉たちが、いるのではないか? もしそうだとすれば、かつての諸世代とぼくらの世代とのあいだには、ひそかな約束があり、ぼくらはかれらの期待をになって、この地上にでてきたのだ。

 

ベンヤミン「歴史の概念について」第二テーゼ (野村修訳)

 

 この「歴史哲学テーゼ」とよばれるベンヤミンの書きかけのメモには、18個のテーゼがあって、そのうちの二番目から、一部を引用しました。この第二テーゼも、今回の主題の第九テーゼに負けず劣らず激エモ過ぎる文章なので、よかったら是非見てみてください。たぶん、どっか図書館とかネットに落ちてると思います。

 

ここでベンヤミンが何を言っているのかをざっくり適当にいいます。

人間が望んでいるものは、過去の救済、解放であり、いくら未来や現在に希望を持っているように思えても、その幸福のイメージは直接未来から来ているのではなく、過去に残して来たわだかまりや後悔や、叶えられてほしかった可能性で、それが未来や現在に映っているだけなのだ

と、いうことです。だと思います。(『精読』97~99)

 

僕たち、今を生きている人間は、過去を救済することができます。と、ベンヤミンは「歴史の概念について」のいろいろなところで言っています。ここでいう過去とは、自分の過去だったり、「お父さんが若いころ医学部受験に失敗したので、僕が灘中に入学して頑張るぞ!」みたいな両親とか親戚の過去のことでも間違いではないのかもしれませんが、せっかく歴史の話をしているので、ベンヤミンが言いたいのはもっと別のことなのでしょう。

 

 歴史の天使の目の前には瓦礫がありました。彼は瓦礫をより分けて、物事を選び出し、「星座」を組み立てようとしています。輝く星座は彼に何らかの意味を投げかけることができます。天使の目は「大きく見ひらかれ」、顔は「過去に向けて」います。

 過去の出来事の配置は、天使にどういう意味を投げかけているのでしょうか? 天使はどんな気持ちでそれに応じているのでしょうか? 上のほうでは後悔とか、わだかまりとか適当に書きましたが、ベンヤミン自身はこの問題について明言を避けています。

 

すこし、話がそれますが、こういう風に事実やフィクションの配置を使って、言葉では言い表せない概念を伝えるっていうことが、おもに行われているのは、文学というフィールドですね。特に小説はそう。

(逆に言葉で言える概念を使って、物事がどう配置されているかを伝達しようとする小説もあったりしますが、基本的にはそれは失敗作とみなされるやつになります。)

 

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最初に紹介した、リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』がやっていることはまさにこれな気がします。内容はほぼ忘れたんですが、表紙に出ている三人が、歴史に名を遺すこともなく、第一次世界大戦の混乱のなかに生きた軌跡、この写真が現代まで残った軌跡を、歴史の瓦礫の中から丁寧に寄せ集めて描いた、みたいな話です。漫才でいったらダウンタウンくらい面白いので、ぜひ読んでみてください。

 

他にも、そういう手法を特に明瞭に使う作家として、レイモンド・カーヴァーとか、ジョナサン・サフラン・フォアとかがいる気がします。

ベンヤミン自身も、哲学的著作のほかに短いエッセイをたくさん書いている人なんですが、そのエッセイの雰囲気とかそんな感じだったはずです。たぶん。何冊か読んだけど、内容全く覚えてないです。

 

進歩の風

 意味がつかめてきたところで、ちょっと文章に戻ってみてください。

「たぶんかれはそこ(廃墟の前)に滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろう」

死ぬほど頑張って解説してきたので、この文章の意味はたぶんわかりますよね。でも、ちょっと不穏な感じじゃないですか? 「組みたてたいのだろう」って。じっさい、文章はこう続きます。

「しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が天に届くばかりに高くなる。」

 

歴史の天使は、廃墟から出来事を組み立てることに失敗しています。失敗しつづけます。「歴史哲学テーゼ」って文章全体を通して、つねに悲観的であるわけではないですけど、「敵は、いぜんとして勝ち続けているのだ」(第六テーゼ)など、天使のすることが、いつでも成功するわけではない、いやむしろ、勝利は絶望的かもしれない、という考えをベンヤミンは持っているように思えます。

 

まあそもそも、ベンヤミンの言う「進歩の強風」って何なんですかね。これはマジでベンヤミンがそもそもちゃんと書いていないので、読解するのは不可能なのですが、なんとなく、いいたいことはわかるので、勝手な解釈で補うことはできます。『精読』の124~126ページあたりで、ベンヤミンの文章の他の部分を参照しつつ、著者も自分の解釈を補っています。その概要を以下にざっくり書くと、

 

人間はそもそも、本来、過去手に入れたものを使って、現在の中で、未来の、まだ実現していない目的に向かって進んでいく存在であり、いくらベンヤミンが、「人間は過去との約束に繋がれて、未来ではなく過去を向いている」と言ったとしても、現実のありかたとして、人間が未来に進んでいくのは、たぶん間違いないように見える。

人間がそういうあり方をしている以上、社会は進歩していくので、過去の廃墟のまえに立ち止まるあり方はあまり褒められたものではなくなる。過去には廃墟はなく、人類の輝かしい発展の道すじが残っている、と考える方が都合がよくなる。たとえ、進歩のあいだに忘れられ、競争に負けて貧乏になって誰にも知られずに死んだ人がいたとしても。

それが、「進歩の強風」として、天使を、瓦礫の前から引きはがし、そうやってできたスペースにまた新しい瓦礫が築かれていく、そのメカニズムなんじゃないか。

 

タームが分かる人用にざっくり書くと

そもそも未来に向かって企投する存在である人間において、啓蒙主義的な進歩史観と現実の文明の発展は不可避であり、そこにおいては均質な時間の上での不可抗的な進歩という時間観が前提されており、ベンヤミンの言うような過去優位的で神学的な歴史的唯物論は成り立たない。

という感じになるでしょうか。

 

身近な例を探してみると、

クラス一丸となって卒業式に向けて協力して、みんなの夢をかなえられるようにしていこう、という雰囲気になっているとき、春先にクラスになじめずに不登校になってしまった子のことを話題に出すことがためらわれるようになってしまう。

といった感じっぽいですね!

 

余談ですが、こういう風に身近な、卑近な例に理論をあてはめてみるのは、意外と大事なんじゃないかと最近思ってるんですけど、じっさいやってみると、「俺が考えてきたこと、こいつが言ってたことは、こんなしょうもない、考えるまでもなく当たり前に普段の生活で感じるようなことだったのか?」みたいな気持ちになって哲学やめたくなってくるんですけど、そうじゃなくて、明らかなことから隠されたことまで、いろいろなことをひとつの理論構造で説明できる(かも!)ってところが、たぶん哲学の理論の面白いところなんですよね、きっと!

そう思いたい!

 

 アプリケーション

 ここまでが、理論の話でした。最初に「歴史の天使」の文章を読んだときにはふかく考えず、「なんだこれ、わけわかんないけどエッモ~~!!」って思ってただけですが、まあでも、ひとまず内容を理解してみた結果、その時直感的に無意識の中で理解していたような内容と、大体あっていたような気がするので良かったです。今度からこの文章を読んだときには「わけわかるしエッモ~~!!!」って思うことにします。

 

単に、「訳わかる、エモい」だけでもいいんですけど、せっかくここまで3日かけて本を読んで調べて、ここまでですでに7000字も書いているんで、現実に生きている僕自身について、この文章が何を意味しているのかを考えてみたいと思います。「エッモ~~!!」ってなっている以上、僕とこの文章は、現実の世界において何らかの関係を持っていると思いますから。

 

では、「歴史の天使」の文章は、どういうふうに僕の人生に影響するかもしれないんでしょうか。ちょっと立ち止まって考えてみると、俺は、こういう時間や歴史の概念に沿って生きている感じがありません。「過去との約束」といってもなにも思い浮かばないし、ある過去の出来事の配置が、意味を持ってたったいま現在の自分に現れているようにはまったく思えません。

 

それは何故かというと、実はベンヤミンはすでに答えを出していて、彼の理論によれば、過去に目が行かないのは「進歩の風」によって自分が飛ばされてるからなんですね。役に立たないと言われている哲学の理論が役に立った感じがあります。なにやら、「進歩の風」が、俺を過去の出来事に向き合うことを妨げているっぽいです。それが分かれば、過去の廃墟に目を向け、そのなかで「二分法の無限シリーズ」を使って出来事を「星座」として再構成できれば、過去そのものが意味を持って俺に語りかけてくるはずです。

ベンヤミンの言うことが正しければ。

 

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「進歩の風」が吹いている場所、まあ、いろいろありそうですけど、とりあえず、個人的に興味がある二点、「進化」の問題と「発達」の問題に関した形で、考えていることをまとめていこうと思います。

 

まずは、「進化」について。進化の理論について詳しく調べてから書こうとするとキリがないんで無理なんですが、個人的には、生命や社会構造、化学進化、宇宙進化などの様々なレベルの体系の時間的推移を「残るものが残る」というきわめて強い理論で説明しているのが進化論だと思っています。

ここに、ベンヤミンの歴史の天使を登場させてみると、僕たちの知見や興味は、残っているものに集中してしまっていて、弱かったか、合わなかったか運が悪かったかはともかく、無数のとにかく残らなかったものたちについて光をあてることができていないんじゃないか、という気がしています。宇宙の歴史は、残ったものの軌跡であると同時に、残らなかったものの、莫大な廃墟の山なんじゃないかという気持です。

 

ちょっと抽象的なレベルで話をし過ぎているので、残らなかったものについての「くず拾い」の実践がどんなものになるのかは、ちょっと想像がつきません。たぶん、座って考えていれば大丈夫な領域をすぐ離れるでしょう。そうなったら、たぶん、行動した方が早いので、この話はここでおしまいです。

しかし、「くず拾い」とは別の構成要素である、「天使が廃墟の前に顔を向けていること」についてはもう少し考える余地があるように思います。

 

天使は廃墟の前に顔を向けて、なにを思っているのでしょうか? 天使は、廃墟の構成作業を終えたあと、それを受けて何をするのでしょうか?

ベンヤミンは、「歴史の概念について」の他の部分や、そもそも彼がマルクス主義者であることを考える限り、「意味を受け取って行動せよ」と言っているように見えます。けど、そこまで言う予定の本じゃなかったのかは知りませんが、この本は、文字通り「歴史って何?」について書いてあって、過去からパスを受けた後の動きについてはあまり詳しく触れていないように見えます。

 

『精読』の著者も、この問題については明言を避けていますが、歴史の天使の顔について「憂鬱のまなざし」である、そして「憂鬱の目こそ歴史哲学の目であり、その精神」(両方とも『精読』123)と述べています。「憂鬱」っていう言葉はベンヤミンの文章には出てこないので、ここはすこし強めの解釈をしたのかな、と思われます。

 

 ベンヤミンのもともとの意図であった、啓蒙主義的な進歩思想批判とは違って、進化論について考える場合、歴史の天使の姿勢でもって過去の廃墟に臨もうとしている主体は、そもそも単に残っているだけなので、行動として過去の意味が現れてくる余地はないように思えます。

逆に、「憂鬱」あるいはほかに考えうるなにかの「歴史認識上の態度」のみが要請されるギリギリのものだ、と解釈する場合、僕は残らなかったものをただ憂鬱に見ているだけでいいんでしょうかね。それとも、その歴史認識上の態度は何らかの、倫理とまではいかなくても、なにかの価値性を、単に残っているだけの僕たちの今現在の在り方に押しつけるようなものなのでしょうか。

ここはまだ普通に考える余地があると思うので、もう今日は眠いんで無理ですけど、また考えてみたいですね。

 

最後に、「発達」について考えてから寝ます。「発達」って言葉で念頭に置いているのは個人、あるいはまあ、いっちゃえば、僕自身の発達の歴史です。

人間はまあ、年齢の経過に沿って、いろいろなことを経験したり、そもそも生物学的に変化したりして、発達していくわけで、そこにある意味で進歩史観的な考え方をもちがちだと思うんです。

 

まあ、僕で言えば、子供のころは他人の考えなんて全くわからなかったし、意地悪だったし、よく弟を殴っていたんですが、年齢を経て社会的ステージを進むたびに、丸くなったし、他人の考えがわかるように多少はなったし、悪い部分、非適応的な部分は少しずつ直して、人に好かれて、物事をうまく進められるような人間になろうと多少は頑張ってきて、今もまだまだですけどその途上なわけですが、これは、言ってみれば進歩史観だと思うんです。

 

僕は進歩の風におされて、多少は成長したっぽいんですが、その後ろにはたくさんの、捨てられた自分の廃墟があります。僕だけじゃなく、たぶん、生まれてすぐに完璧でそのままいっさい変化していない一部の人を除けば、たぶん、誰の背後にもそうだと思うんですよね。

完全に逆行するかはともかく、すこし、たまに、進歩の風に逆らってみて、そこで廃墟の中を探検してみて、何がしか意味ありげな出来事の配置を見つけたら、それが今をもう一度新しいやり方で生きていく上での示唆になるかもしれないな、と。ベンヤミンの求める個人発達における進歩史観の批判といったラディカルな方向まで議論が進むかはともかく、さっきのようなことは少なくとも言えて、しょうもなく頭で考えていたことが少しでも現実に生きる役にたつのではないかな、と考えているところです。

この場合、歴史の天使の態度を考えるよりは、二分法の無限シリーズによる探索が、目標を達成する役に立ちそうです。

 

おわりに

ここを読んでいる100%の人が、10%も読まずにここまでスクロールして飛ばしたと思いますが、もし読んだ人がいたら、すごいですね。間違ったことも書いていると思いますが、正しいことを書くのは普通に無理なのでそれは許してください。もし、気分を悪くするようなことを書いていたら、すみません。言ってくださればめっちゃ謝ります。あと、もし誤字脱字見つけたらおしえてください。

 

「ぼーっとしている」「何を考えているかわからない」と言われることがそこそこありますが、だいたい僕はここに書いたようなこと、特に本を読まないでも考えられる、下の方に書いてあるようなことを考えています。こういう、どうしようもないことについて考えることは、一人でもできるし、基本無料(アイテム課金制)だし、まあまあ楽しいので、お勧めです、しょうもないことについて考えるの。

 

じゃあ、おわります! にっこにっこにー! さよなら!

*1:ここはコメントをいただいたので2022年に修正。