サッカーの試合で起きること~2019シーズンJ1第25節 神戸vs札幌~

 

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 「サッカーとは相手がいるスポーツだ」という、よく使われる言葉がある。目の前の一試合に勝つためには、自分たちがいいプレーをするだけではだめで、相手の良いプレーを消さなければならない。しかし、相手に合わせて対策をしているだけでは、1シーズンを通して安定した成績を残すことはできない。週に一度か二度やってくるサッカーの公式戦、それを毎試合毎試合相手のやりかたを頭に入れて対策して、事前にミーティングで決めたルール従って動き続けるのはどんなに対応力のある選手でも難しいんだと思う。やっぱり、対策とはべつに、迷ったときに立ち返れる自分たちの強みを生かした確固としたスタイルも必要なのだ。

 

 札幌のミハイロ・ペトロヴィッチ監督は、どちらかというと、選手たちそれぞれの強みを生かして自らのスタイルを確立させることを優先させる監督である。しかし、一年に数回、こだわりを捨てて対策に回る試合もある。この神戸戦がその試合だった。

 

 普段は札幌の最前線で悠然と玉座に座っているジェイが、この試合は神戸のセルジ・サンペールを消すために奔走する。チャナティップと武蔵もジェイをサポートしつつ、それぞれダンクレーとフェルマーレンをけん制する。神戸がボールを下げたら、守備対象をスイッチしてラインを上げる。

 全員が意思を統一し、ひとつひとつの駒として動く。この集団行動の美しさ、みたいなものは間違いなく、サッカーの試合で起こる素晴らしい出来事のうちのひとつだと思う。

 

 札幌は組織だった守備、というのが得意なチームではないので、前半のこの展開は手に汗を握りながら見ていた。神戸の後方部隊に仕事をさせず、なんとか前半を乗り切れるか、というところで、守備の一つのミスから"好調"田中順也のシュートで失点した。チームとして頑張っていても、ひとりの選手の出来不出来でゴールは生まれてしまう。チームとして試され、個人としても試される。これがサッカーだ。

 

 しかしその後あっさり同点に追いつき、緊張感を保ったまま試合は後半へ入る。札幌は前線の並びを変え、ジェイと武蔵をツートップ、チャナティップをトップ下の位置に置いた。これにより、セルジ・サンペールを消す役目はチャナティップに移る。ジェイよりはチャナティップのほうが守備では頼りになるが、これにより神戸の左右のセンターバックが相対的に自由になる。前半よりはおたがい、自分たちの強みを出しやすくなる配置になった。果たして、どうなるか……、と思って見ていたら。

 

 このゴールで札幌が逆転に成功する。……だがこれは正直言って100%ゴールではない。とはいえ審判がこれを正しく判定するのはとても難しく……、ひょっとしたらこれを見れる可能性は0%だったかもしれない。しかし、審判はどんな状況であっても、どんなに材料がなくても、必ずなんらかの判断を下さないといけないのであり、今回は間違ったほうを選んでしまった。

 サッカーではこういうことも起きる。

 

 

 結果は3-2で札幌の勝利。その後神戸が、田中順也の素晴らしいゴールで追いつき、札幌も素晴らしいコーナーキックでふたたび突き放した。このふたつは文句なく素晴らしいプレーの結果生まれたゴールだった。残念なことも起きるけど、それとはべつに、素晴らしいプレーもやっぱり生まれる。

 

 良くも悪くも、サッカーで起きうる美しいことと美しくないこと、そのすべてが起こった試合だった。

 

向島

 

 この日は向島へ散歩に行った。「むこうじま」と読む。花街として有名な土地らしい。墨田区にあり、いろいろな交通手段で行くことができるが、今回は歩いていくことにした。

 

 一時間くらいかかったので、歩いている間にもいくつかのことがあったが、あまり触れずに、スピード感重視で書いていく。

 

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 こちらが目的地の一つであったセイコーミュージアム。僕の好きな「企業のメセナ文化施設」であり、その例にもれず、入館料なしで入ることができるわりにホスピタリティが良い。

 中は大きく一階と二階に分かれていて、一階では人類の時計の歴史、二階ではセイコーの時計の歴史を見て回ることができる。古い時計がたくさん置かれているので、当然、チクタクという音がずっと鳴っていて、サウンドスケープとしてもかなり良好な施設だった。

 

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 そのあとは向島百花園へ行った。六義園のような庭園である。シーズンの都合もあるのか、"百花"というほどではなく、せいぜい"二花"か"三花"くらいではあったが、それでも緑のなかを散策するのは楽しかった。

 写真に撮ったのはまだ小さいものばかりだけど、でかいひょうたんもあってそれもとてもよかった。生で見るひょうたんは意外と質量感があって、そういう形の鈍器のように見えた。

 

 そのあとはツイッターで有名な居酒屋に行きたかったのだけど、すこし時間があったので墨堤のあたりを散歩した。墨堤というのは、かつてあった隅田川の堤防の、とくに文化的な一区画を指す指す言葉らしく、墨田区が「隅田区」ではなく墨田区なのは、この「墨堤」という文化的な一区画から一字を借りているからなのだという。

 

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 ラーメンも食べた。居酒屋も素晴らしかった。良い日だった。

Apple Music Challenge(3か月で10000曲聞いたときの話) 3

 

その1

 

その2

 

 12月22日。クリスマスも近づいてきた。年をまたいで1月の30日に90日の無料期間が切れると思われる。ペースは大丈夫なのだろうか。

 

  とはいえ自分を信じて聞いていくこと、それしか僕にできることはない。

 

 ついに年(2015年)が終わった。あと1か月だ。

 

 冷静に考えて、最初の二か月で5000曲しか終わっていないということは、残りの一か月で今までと同じ数の曲を聞かないといけない。一か月あたりで考えると二倍のペースである。普通に考えるとチャレンジの達成をあきらめるシチュエーションではある。しかし僕には勝算があった。この年、僕の通っていた大学の学事歴は特殊で、1月以降はまるまる4月まで冬休みだったのである。

 つまり、僕は時間のすべてを音楽を聞くことに費やすことができる。勝負はここからだぜ。

 

 知ってました? ウルグアイアン・インヴェージョン。

 

 The Divine Comedyもこんな機会がなければ聞くことがなかった音楽だろう。とくに、有名な文学作家の名前を連呼するこの曲が好みだった。

 

 

 今の視点から見ると「本当か?」と思うが、1月7日時点の自分はかなり余裕を感じているみたいだ。この時期の僕は音楽を聴く以外のことを全くしておらず、人生における貴重な時間を無駄づかいしていた。インターンとか行っておけばよかったのに。

 

 ウケてる場合じゃないよ。

 

 1月9日。あと3475曲。

夢日記(2019.8.30)

 

 この日はとても完成度の高い夢を見た。朝起きたらかなり難易度の高い、やりたくない作業をしたあと、夜もまたそれなりに憂鬱なバイトをしないといけない、人生にできればあってほしくない、昨日の夜も逃げるように眠った、そんな日だったので、その朝を完成度の高い夢で迎えることができたのは非常に良かった。

 

 ディストピアものの夢だった。なんらかのパーティーの途中で、画面に映った独裁者が唐突に、「これからはこれまでとは違う」と宣言し、はしゃいでいたパーティーのお客さんは静まり返る。窓から街を見渡すと、人々がスマホの画面を覗きこみながら港へ歩いていく。

 

 これがなんのパーティーだったか思い出した。この国の人民はなんらかの基準によってふたつに分けられていて、パーティーにいたのは基準を達成した組で、外にいたのは基準に満たない人々。港には「チョーカー」と呼ばれている種類の船が停泊していて、基準に満たない人々はスマホから顔を上げることがないまま、まるで洗脳されているみたいに船に乗り込んでいく。パーティーの参加者は必死にその流れを押しとどめようとするけど、人々はスマホに夢中で言うことを聞かない。

 チョーカーには効率的に人間を海に沈めて殺す機械が積まれている。

 

 虐殺の一夜のあと、選別された人々のうち一部はパルチザンとして地下のなんらかの遺構に潜伏している。選別された人々は選別されただけあって、それぞれ特別な技能を有していて、その力を合わせて独裁者を倒すつもりでいる。

 エンジニアだったり傭兵だったり科学者だったり、わかりやすい強みを持っている人もいれば、酒を飲んでヨガをして寝ているだけの人もいる。彼の仕事はアイディアを出すことで、その直感を研ぎ澄ませるために毎日酒を飲んでヨガをして寝ているのだという。

 しかし、これまでのところ彼が役に立つアイディアを出したことは一度もなく、出したとしてもそのアイディアは尊重されながらも、結局は会議で却下されるだろう。

 

 ……という夢だった。個人的に感動したポイントは3点。

 

1.スマホ歩きで虐殺の場に向かう大勢の人々

 これは夢の中で目の当たりにして恐怖だった。いまや我々を操っているのは巨大なスクリーンではなく、手元にある小さな画面なのである。巨大なスクリーンならば、個人の努力で目をそらすことができるかもしれない。でも、手元にある、自分の意志でオンオフすることのできるスマートフォンならどうだろう。ヴィジュアルとしても恐ろしかったが、示唆しているものももっと恐ろしい。

 

2.「チョーカー」という船のネーミング

 チョーカーというのは一般的な名詞で、タイトな首飾りのことを指している。しかし、おおもとの意味は「choke」(窒息させる)+「-er」(~る者)である。また、巡洋艦(cruiser)や駆逐艦(destroyer)などのように、物騒な船には「その船の仕事を表わす動詞+er」というネーミングがされていることが多い。

 そもそもフィクションの登場事物に一般名詞をつけなおすことはかっこよく、さらにそれが命名慣習に従っていて納得感がある。なんというクリエイティビティだ。

 

3.毎日酒を飲んでヨガをして寝ているアイディアマン

 この人はパルチザンの活動の役にあまりたっていないので、物語としての筋からすこし離れた挿話としての役目しかない。しかし素晴らしい挿話だ。そういう、生産性のない職が許されているパルチザンの先進的な組織構造に感心するとともに、しかしそれでも、結局は浮いたアイディアマンは役に立たないであろうという悲観的な描写には寓話性を感じる。

東洋文庫ミュージアムの漢字展

 

 東洋文庫ミュージアムというところで開催されている、「漢字展ー4000年の旅」という展示を見てきた。会期は2019年5月29日(水)〜9月23日(月・祝)。JR山手線の駒込駅から六義園の方向に歩いて行って、六義園をちょっと過ぎたあたりにある。

 

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 なかはこんな感じ。とてもかっこよく本が並べられている。物体としての本が好きならばこれだけでけっこう満足できるかもしれない。

 

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 展示は本が中心だったが、このような甲骨文字が書かれた甲や骨の断片もあった。漢字の歴史をたどる企画展の本丸ではこのような断片に始まり、説文解字康煕字典簡体字ハンドブックなど、漢字の歴史にまつわる記念碑的な本が次々と紹介される。

 

 ちなみに、中国には漢字を発明したとされる「蒼頡」という伝説上の人物がいて、このひとをかわいくデフォルメしたキャラクターが展示の案内人に抜擢されていた。観察力が優れているおじさんで、その証拠に目が四つあったという。

 

 昔大学に通ってたころ、教授が授業の合間のこぼれ話で、「ちなみに、ちなみに、中国には漢字を発明したとされる『蒼頡』という伝説上の人物がいて、これを中国語読みするとCāng Jiéになるんですよ。わかります? みなさん? 漢字を発明したCāng Jié……。ぐふふ」といっていてちょっと気持ち悪かったのでいまも鮮烈に覚えている。中国には漢字を発明したとされる『蒼頡』という伝説上の人物がいる。

 

四角号碼(しかくごうま)は漢字の検索方式の一つ。漢字の四隅を形状により0から9まで番号を付与し、更に同一番号となる漢字を区別するために「附角」番号を付与し、最大5桁の数値で漢字を配列する。

 展示内容でいちばん「へえ~」となったのはこれ。たしかに漢字に字形からわかる番号を振れたら便利だとは思うけど、熟練に時間がいりそうだ。

 

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 近くには明らかに蕎麦屋か天ぷら屋か寿司屋の居抜きで入ったものと思われる、そぐわない外見のタイ料理屋さんがあった。外見は0%、内装は20%ほどのタイ料理屋さん感しかなかったが、料理はもちろん100%タイ料理だったし、店の中にも思いっきりタイ料理屋さんでかかっているようなタイ音楽がかかっていた。

 生きのいい違和感を感じることができる、ややめずらしいスポットだと思うので、東洋文庫ミュージアムを訪れる際の昼食にはここをご検討してもらってもいいのではないだろうか。

 

 さらにこのタイ料理屋の隣には、「BOOKS青いカバ」というかわいい名前のセレクト古書店があった。フェルナンド・ペソアのTシャツとかも売っているらしい。東洋文庫ミュージアムとあわせてどうぞ。物体としての本が好きならばいい感じのひとときを楽しめると思う。

脱童貞という冒険~デイヴィッド・ベニオフ『卵をめぐる祖父の戦争』~

 

 第二次世界大戦。舞台はドイツ軍包囲下のレニングラード。歴史のあるこの街を陥落させる力がないと判断したドイツ軍はモスクワへの進軍を優先し、レニングラード兵糧攻めにされることになった。

 共産党の権力者を除く、老若男女全員が飢え果てているこの街で、主人公のレフは相棒のコーリャとともに、大佐から「卵を12個見つけてこい」との命令を受ける。もしそれができなければ、――待っているのは、銃殺。

 

卵をめぐる祖父の戦争 (ハヤカワ文庫NV)

卵をめぐる祖父の戦争 (ハヤカワ文庫NV)

 

 というのが『卵をめぐる祖父の戦争』の物語の簡単なティーザーである。戦争中のちょっと非現実的な出来事を題材にとり、そうやって作ったダミーのストーリーライン上で主題を展開する、というのは現代文学ではわりとよくある手法であるが、こちらは純血のエンターテイメント作品で、卵をめぐる冒険のお話がそのまま小説の主題になっている。

 

大佐は微笑んだ。「おれはおまえが気に入った。おまえが長生きすることはないだろうが、それでもおれはおまえが気に入った」

 物語におけるほとんどすべての期間で、主人公と相棒は死にかけている。ぎりぎりの駆け引きと最終的な暴力で、なんとか立て続けのピンチを潜り抜けるのだけど、そういうサスペンスストーリーが脳に直接送り込んでくる快楽はすごい。

 

 自分に自信がなく、いつか自分が体を張らなければいけない局面で情けない行動をとってしまうのではないかと心配している主人公のレフが、魅力的で女に困ったことがない兄貴分のコーリャの手ほどきを受けながら、最終的には戦いに打ち勝ち……、という王道のストーリー展開をする。

 王道のストーリー展開には特有の限界もあり、それを乗り越えているという感じではない。すこし陳腐に思える場面も多く、とくに終盤の置きに行った感はちょっと好きではないが、それでも王道ストーリーの快楽を喚起する力を信じてそこに乗っかっているのは思い切りが良い。なにより読んでて面白かったし笑ったし泣いちゃったよね。

 

 もちろん快楽だけではなく、戦時下の生活の残虐さや悲哀がドライに描かれている。爆弾犬のエピソードや猟師小屋を脱走しようとした少女のエピソードはきつい。ほかにも、そういうものが世の中にはあったんだと驚いたのは、レニングラードのラジオでずっと流されていたというメトロノームのエピソード。

 包囲下のレニングラードでは街頭スピーカーからずっと音楽が流れていて、音楽が尽きたときにはメトロノームの音を延々と流していたらしい。作中人物はそれを「レニングラードの鼓動」だと表現している。

 

ナイフの使い手だった私の祖父は十八歳になるまえにドイツ人をふたり殺している。

  最終的には、書き出しにあるこの予見法の一文がこの小説で最も素晴らしいところのような気がしないでもない。タイトルにつられて手を取った読者への強烈なダイレクトマーケティングになっている。

 

 人間の歴史に何かを付け足したといえる、真実の価値のある作品でなければ、この短い人生の間にわざわざ読むべきではない、と考えているようなひとにはわざわざ薦めるような作品ではないが、そうでないのならおすすめです。

Apple Music Challenge(3か月で10000曲聞いたときの話) 2

 

前回までのあらすじ:

 Apple Musicの無料期間3か月を利用して、曲を、たくさん! ……そうだなあ、切りのいい数字、1000は簡単そうだから、10000にしよう! 10000曲聞いちゃおう! そしたらめっちゃお得、0円で10000曲聞けるわけだから、1円当たりの曲数は、…無限大だ! などと考えた僕であったが、1500曲のあたりで普通に疲れてきた。

 

 日付は11月24日。チャレンジを始めたのが11月2日なので、もう三週間が経過したことになる。ご覧のとおり、曲の評価基準がよろしくない方向へ変化してきている。美しいものを十分な時間をかけて楽しむという、芸術鑑賞の本来性は見失われてしまった。

 

 ちなみに、10000曲を90日で割ると、111.11111......曲/日となる。このツイートで言う一日のノルマというのはアルバムに直すと8~10枚くらいということになる。それを3か月続ける。どうお思いになるでしょうか? いけるかいけないか、かなりぎりぎりのラインに見えてチャレンジ心がくすぐられませんか? 当時の僕はめっちゃくすぐられてました。

 

 このころはまだラブライブにまったく興味がなく、ミューズと言えばMuseだった。人間は大きく変わるんだな。

 

 せっかくなのでいろんなジャンルの音楽を、と考えていろいろ聞いていたけど、やっぱりクラシックは一曲の長さが長めだったので、ノルマをこなした深夜などにひっそりと聞いていた。こちらはフランスのマイナークラシック作曲家である。いまでもたまに聞き返す。

 しかしこの時点で12月8日。一か月と一週間ほどが経過しているが、進行度はまだ2850/100000である。大丈夫なのか? 自分のことながら心配になってきた。

 

 3000曲手前くらいのあたりから選曲に彩りを持たせたくなり、マイナーな国のポップソングをいろいろ聞くことになる。これがかなり個人的には好きだった。国には国の、個性があるんですよね。

 

 たとえばこのLonely China Dayなんかは、いまでも折に触れて聞き返す美しい音楽を鳴らすバンドだ。10000曲聞かなかったら絶対出会えなかったと思う。

 

 Finnegan Bellも素晴らしい遺産だった。探せば探すだけ、美しいものに出会えるようになっているんだ、この世の中は。