脱童貞という冒険~デイヴィッド・ベニオフ『卵をめぐる祖父の戦争』~

 

 第二次世界大戦。舞台はドイツ軍包囲下のレニングラード。歴史のあるこの街を陥落させる力がないと判断したドイツ軍はモスクワへの進軍を優先し、レニングラード兵糧攻めにされることになった。

 共産党の権力者を除く、老若男女全員が飢え果てているこの街で、主人公のレフは相棒のコーリャとともに、大佐から「卵を12個見つけてこい」との命令を受ける。もしそれができなければ、――待っているのは、銃殺。

 

卵をめぐる祖父の戦争 (ハヤカワ文庫NV)

卵をめぐる祖父の戦争 (ハヤカワ文庫NV)

 

 というのが『卵をめぐる祖父の戦争』の物語の簡単なティーザーである。戦争中のちょっと非現実的な出来事を題材にとり、そうやって作ったダミーのストーリーライン上で主題を展開する、というのは現代文学ではわりとよくある手法であるが、こちらは純血のエンターテイメント作品で、卵をめぐる冒険のお話がそのまま小説の主題になっている。

 

大佐は微笑んだ。「おれはおまえが気に入った。おまえが長生きすることはないだろうが、それでもおれはおまえが気に入った」

 物語におけるほとんどすべての期間で、主人公と相棒は死にかけている。ぎりぎりの駆け引きと最終的な暴力で、なんとか立て続けのピンチを潜り抜けるのだけど、そういうサスペンスストーリーが脳に直接送り込んでくる快楽はすごい。

 

 自分に自信がなく、いつか自分が体を張らなければいけない局面で情けない行動をとってしまうのではないかと心配している主人公のレフが、魅力的で女に困ったことがない兄貴分のコーリャの手ほどきを受けながら、最終的には戦いに打ち勝ち……、という王道のストーリー展開をする。

 王道のストーリー展開には特有の限界もあり、それを乗り越えているという感じではない。すこし陳腐に思える場面も多く、とくに終盤の置きに行った感はちょっと好きではないが、それでも王道ストーリーの快楽を喚起する力を信じてそこに乗っかっているのは思い切りが良い。なにより読んでて面白かったし笑ったし泣いちゃったよね。

 

 もちろん快楽だけではなく、戦時下の生活の残虐さや悲哀がドライに描かれている。爆弾犬のエピソードや猟師小屋を脱走しようとした少女のエピソードはきつい。ほかにも、そういうものが世の中にはあったんだと驚いたのは、レニングラードのラジオでずっと流されていたというメトロノームのエピソード。

 包囲下のレニングラードでは街頭スピーカーからずっと音楽が流れていて、音楽が尽きたときにはメトロノームの音を延々と流していたらしい。作中人物はそれを「レニングラードの鼓動」だと表現している。

 

ナイフの使い手だった私の祖父は十八歳になるまえにドイツ人をふたり殺している。

  最終的には、書き出しにあるこの予見法の一文がこの小説で最も素晴らしいところのような気がしないでもない。タイトルにつられて手を取った読者への強烈なダイレクトマーケティングになっている。

 

 人間の歴史に何かを付け足したといえる、真実の価値のある作品でなければ、この短い人生の間にわざわざ読むべきではない、と考えているようなひとにはわざわざ薦めるような作品ではないが、そうでないのならおすすめです。