にんにくにも危険なレベルの依存性がある気がする

 

 今日よく行っている家系ラーメン屋*1で昼ご飯を食べたのですが、その時にちょっとした気まぐれで、一切卓上トッピングのにんにくを使わずに食べてみたんですよね。それで気づいたことがある。

 

 そもそもなぜそんなことをしようと思ったのかというと、実はここ最近、最初のひと口か二口はにんにくを入れずにラーメンを食べるようになっていた*2のですが、それで食べるとどうも思っていたよりラーメンが美味いんですよ。にんにく盛りで食べているときには気づかなかった、獣のコクとか、醤油の味の深みがあるような…。

 これがおそらくこのラーメンの「本来の味」なのだと思い、この本来の味をもっと長く楽しみたい、でもにんにくは入れたい(にんにくは欲しいので)と葛藤した結果、にんにくは乗せるがあまりかき混ぜず、にんにくエリアとそうじゃないエリアをなるべく分離して交互に食べて楽しむ……、みたいなことを試みたのですが、どうもそれだとダメなんですよね。にんにくを一口食べた時点で、そのあとはラーメンは「本来の味」ではなく「にんにく後の味」になってしまう。

 

 なぜかというとおそらく、にんにくがスープに溶けて味を変えているのではなく、にんにくが圧倒的な刺激で味覚を遮断してしまい、一時的ににんにく・塩・油といった、直線的な味しか感じられないマスク状態になっている、ということなのではないか。

 

 「本来の味」を楽しむには、一切にんにくを絶つしかない。……というわけで今日はそうしたのですが、たしかに「本来の味」は感じられて超うまかった。けど、家系ラーメンを食べ終わったあと、いつもある、あの、「終わった」「達成した」「満たされた」というような何とも言えない充足感、満足感がなかったのである。

 そのかわりに、「……もう一杯注文してもいいな(今度はにんにくを入れよう)」という気持ちさえ沸き起こった。ふだんは麺大盛なんてもってのほか、牛丼屋ではミニを選ぶこの私がである。

 

 さっき簡単に「にんにくを入れずに食べた」と言いましたが、じつはそんなすっとしたものではなかった。一口食べるごとに心の中では「あ」「なにか足りない」「本当に入れなくていいの?」「『にんにくを入れずに家系ラーメン食べてみた!』のブログを書くのは、また今度でいいんじゃない?」という声がずっとどこからか聞こえてきたのである。半分を過ぎたころには「あーあ。もう、引き返せない*3」、食べ終わったときには「本当にこれで良かった?」と。

 

 この感覚、非常に僕はよく知っていて、お酒を飲まないと決めた夜とかこうなるんですよね。お酒を飲まないことで得られる、短期的・長期的な利益どちらも僕は完全に理解しているし、それに沿って自ら選んだ選択なのですが、なのに「あーあ」「何か足りない」という声が響いてきて止まない。その声を止めるために、一度は誓った一日禁酒を破り、瓶に手をかけたこともしばしばである。「まだ10時半だから、いまから飲みはじめれば十分間に合うって」

 

 酒を絶やさないようになってからの人生はもうけっこう長くなったが、同時に家系ラーメンに必ずにんにくを入れるようになってからの人生も同じくらいの長さだ。最初に人さじ入れて、「なんだこれ! 刺激的でウメー!」となってからは1杯たりとも完全ににんにくを欠いた家系ラーメンを食べたことはなかったのではないだろうか。

 ひょっとしたらにんにくは、まだ科学的に調べられていないだけで、本当は危険な依存性のある薬物なのかもしれない。

 

 いまはまだ流通技術とか食品科学が十分に進歩していないので、家で手軽ににんにく家系ラーメンの味を味わうことはできないのですが、イノベーション後には、家系/二郎系エスプレッソみたいな感じで真空に入った小瓶が売り出されて、家で好きなときににんにくをチャージできるようになるかもしれない。

 そうなったら、個人的にも社会的にも、にんにく依存というものが大きな問題になってくるだろう。それぞれの依存性物質の前に依存症者は無力なので、時が来たら依存するしかないのですが、それはそうとして、まあ自覚というか覚悟を持っておくのは大事でしょう。にんにくにも危険なレベルの依存性がある気がする、それを踏まえながらこの先長いかもしれないし短いもしれない人生を生きていきたい。

*1:美味いよって言って薦めたいんだけどちょっと先に説明させてほしいこともある - タイドプールにとり残されて

*2:この第一段階の気まぐれにはとくに理由はない。

*3:これからにんにくを入れても半分の満足しか得ることができないだろう。