開いている飲み屋さんで人生の終わりを思う

 

 上野に夜開いている居酒屋がある。しっかりお酒も出している。

 いま夜開いているお店というのは、「やっぱりこのお店ならいま夜開けてるよね」って感じの格のお店であることが多い、という印象があるのだけど、そのお店はめずらしく、「いやあなたたちのところは、このシチュエーションで夜開けなくてもいいでしょ」という程度には格の高さを持つお店だったので、いま開けているのは本当に意思表示とか慈善事業なのだと勝手に思っている。

 

 そのお店で飲んでいたら、あがってしまっている*1アル中のひとが入店してきて、僕のとなりの席に来た。レモンサワーと豚バラ焼きを注文して、そのあと店員に灰皿の場所を聞き、そのあとトイレの場所を聞き、たばこを喫って用を足していたのだけれど、その動作すべてが「もう、お前、これ以上人生で酒飲んじゃ駄目でしょ…」となるようなものだった。

 

 そのかたがトイレに行っている間にレモンサワーは来ていて、テーブルにはレモンサワーが置かれていたのだけど、そのかたはお酒に手をつける様子を見せない。「あ、ここまでアル中だともはやお酒は飲まなくてもいいのか…」とちょっと感心していたら、そのかたがきゅうにきょろきょろそわそわし始めた。店員のほうに声をかけようと意を決するようなそぶりをしたり、遠い目で厨房のほうを見つめていたりしていた。小声でぼそっと呟いた。「遅いな…」

 

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 自分が頼んだレモンサワーが目のまえにあるということがわかっていないのである。これはちょっとびっくりしたし、まじで行きついてんな、と思った。神々しささえあった。そのあと、ちょっとして、突然目の前のレモンサワーに気づいてそれをうれしそうに飲んだときは映画クラスの感動があった。

 

 大衆的な飲み屋に行くことが多いので、こういう、道の行き止まりまで来てしまったアルコール好きを見かけることはそれなりにある。このご時世なので会話はしなかったが(ただ、そのかたが刺身にソースをかけようとしたときは、さすがに「お父さん、違う違う。醤油はこっち」と止めた)、過去にはそういった窮道者たちと会話をしてみたこともある。会話をするのには話しかける必要はなく、なんとなく、「あなたのことをべつに無視はしていない、というそぶりをしていればいい」

 

 あるとき、新橋の駅前ビル内の立ち飲み屋で隣だったアル中は、「俺はじつは会社を経営しているんだ」という自慢話ばっかりしていて、その場にいる客全員から疎まれていた。

 てきとうに聞いていたら、突然それが、嘘ではないにしてもはるか数十年前の話で、いまは事業に失敗して家族からも見捨てられ、資産を失い子供とも会わなくなり、あとは酒を飲むくらいしか楽しみがない、という打ち明け話にまで発展した*2。「どちらにせよ知らんわ」とは思ったが、なんというか、人生の悲哀のようなものは感じた。

 

 そのかたが帰っていったあと、お店にいたべつの常連さんから「すみませんね」みたいなことを言われた。そういえば今日も、そのあがってしまったかたがいなくなった後、店員さんに「ソースのときはすみません。ありがとうございます」と丁寧な言葉をもらった。

 

 ひととかかわりを持ったあと、それを周囲で観ていたひとに謝られたり感謝されるのは、たとえ言葉の上だけのものや儀礼だったとしても、ちょっと居心地の悪いものである。

 なんとなく、話の聞き役になってもいいなと思ったり、楽しみに注文していたお刺身の上にソースをかける姿を見たくないなと思っただけなのである。それと、まあ、俺も最終的にはそういう感じになる可能性がそこそこあるので、持ちつ持たれつというか、そういう気持ちもある。それだけなんですよ。

*1:ゴールに到達した、という意味の「あがる」です。

*2:ろれつがまったく回っていなかったので細かいニュアンスは不明だが、だいたいそんな感じの大筋だった。