自殺する能力がありながら、自殺しないことは可能なのか。
ジョナサン・サフラン・フォアが2016年に発表した小説(邦訳は2019年)『ヒア・アイ・アム』は、アメリカに住むユダヤ系アメリカ人の一家と、その親戚のイスラエルに住むユダヤ人一家、各構成員の名前を簡単な登場人物紹介といっしょに頭のほうに載せているけれど、家族や世代を描いたありがちな年代記的作品ではなく、3人の息子とひとりの妻、そして猥褻なメールを保存している秘密の携帯電話を持つ中年男性、ジェイコブ・ブロックひとりを描いた作品のように感じられた。
右翼のブロガーでたまに炎上する父、ホロコーストの生き残りだが遠く離れた老人ホームで死を待つだけの祖父、なぜなぜ期で哲学的な問いを連発する子に、イスラエルからやってきたマッチョな実業家のいとこ。
キャラクターのそれぞれには魅力的な肉づけがされていて、もし、この小説を書いたのがジョナサン・フランゼンであったら、キャラクターたちをそれぞれが輝く面白いうってつけな運命のなかに放り込んで、総体として調和するような見事な作品に仕上げるだろう。
アメリカに戻る機上、大西洋の三万三〇〇〇フィート上空で、ジェイコブはあのシェルターの下にもうひとつシェルターがあって、そこに通じる階段があるのを空想した。だがこの第二のシェルターはとてつもなく大きく、広いせいで世界そのものと区別がつかず、広いせいで大勢の人を収容できるから戦争が避けられない。分厚い扉のそちら側の世界で爆撃がはじまったら、反対側の世界がシェルターになる。
なにかひとつの作品で残さず表せてしまうほど世界は単純じゃないし、自分の表現したいことでさえなにがそうなのかわからず混乱している、けれど、いまこの瞬間自分の知っていることを書く以外に、止まらず書き続ける以外にできることはなにもない。……そういうスタンスで書き、かつそれで傑作を生みだすことができるという、作家としても珍しい特別な能力を持っているのが、ジョナサン・サフラン・フォアだと思う。
850ページもある小説だが、ストーリーはほとんど進まないし、過去へ向かって掘り下げていくわけでもない。進めずになにをやっているのかと言えば、登場人物たちによるウィットの効いた会話の無限の応酬である。
「もうひとつ、まじで、まじで好きなのは、あなたがLではじまる言葉を言う気になれないところ。本心じゃないって思われるのが怖くて。
「はあ?」
「まじで、まじで、まじで好き」
サムはビリーに
愛 を感じていた。彼女はタブレットを昏睡状態にして言った。「Emet hi hasheker hatov beyonter」
「何それ?」
「ヘブライ語」
「ヘブライ語を話せるんだ?」
「フランツ・ローゼンツヴァイクが信仰心はあるか訊かれたときの有名な答えと同じ、"いまはまだ"。でもバル・ミツヴァーを記念してわたしたちのどちらか少しは習うべきじゃないかと思って」
「フランツ・何? ていうか、さっきのはどういう意味?」
「真実はいちばん安全なうそ」
「あぁ。じゃあこれ。Anata wa subete o rikai shite iru baai wa, gokai suru hituyo ga arimasu」
「それは、どういうこと?」
「"全部わかっているとしたら、まちがいを吹き込まれているに違いない"、日本語、だと思う。〈コール オブ デューティ ブラックオプス〉のエピグラフだよ」
ページを開けば見渡すかぎり永遠にこんな感じである。最初は面白く笑ってるけど、途中からめんどくさくなってくる。まあしかし、作家に限らず、人間には自分にとっての真実を話すときにはどうしても逃れられないスタイル、というのがあって、ジョナサン・サフラン・フォアにとってはこれがそうなのだ。耳を傾けましょう。
I という、スペースよりもスペースを取らない唯一の文字を加えたことで、何もかもが変わった。
物語内でジェイコブは自分のこれまでの人生をふりかえり、自分が選んできた生き方のスタンスに対してその他の登場人物が投げかけてくるクリティカルな問いかけを受ける。夫婦は離婚を選び、同時にイスラエルでは大地震が起き、アラブ諸国との戦争がはじまる。イスラエルの国家元首は、全世界に散らばったユダヤ人に「故郷に集まれ!」と呼びかける。
ジェイコブはイスラエル出征を選び、そのあと土壇場でそれをやめるのだけど、そこが21世紀の物語だな、と思った。19世紀や20世紀では、戦争のヒロイズムが男性の物語の締めくくりに選ばれていただろう。
ほかにも、イスラエル情勢とカットバックされてものすごい効果を上げるバル・ミツヴァーでのサムのスピーチや、勇敢ないとことの幼少期の動物園での冒険の話、挿入されるポッドキャストや演技指導、母の結婚式のスピーチ。……文章としての工夫や物語上の創意は凝らされていて、簡単には触りつくせない幅を持った作品である。
>どうやってぼくを見つけたの?
>きみが探していたとしたら、同じやり方でこっちを見つけただろう。むずかしいことじゃない。
『ヒア・アイ・アム』はすべてが書かれた小説だが、客観的な「すべて」ではないし当然僕やその他それぞれの人々にとっての「すべて」でもない。この850ページの小説を読むひとは、それぞれ退屈で飛ばしたくなるセクションを本書のなかにいくつも見つけるだろう。お客さまのために書かれた本ではないのだ。
これは作者にとってのすべてが書かれた本で、そういう本であることが目指されている本である。ひとりの人間が人生のなかでもつ、容易に底に手をつくことのできない深みが広がっていて、それを語るためのスタイルが選ばれている。
なにか腰を据えて他者について知りたいと思ったとき、この本を2週間くらいかけて読んでみるのはいい選択肢になるのではないでしょうか。