名前との再会


 窓を開けると、遠くのほうからDJパーティの音が風に乗って流れてきた。街のほうからだ。今日は3の倍数の日だから、街ではDJパーティーをやる。2の倍数ではお酒を飲み、5の倍数ではビンゴゲームをし、7の倍数ではカンナビスを吸引する。11にも13にも、その先の数にもそれぞれ個別のお祭りがある。倍数がかぶったときはそれらを同時にやり、なんの倍数でもない日はお休みをとる。……街ではそういうふうに日々は進んでいるが、僕の暮らす郊外ではそうではない。

 

 街には街に、郊外には郊外に、それぞれ向いているタイプの人が住んでいる。街の人たちは時間と空間を切り詰めて暮らし、理由を見つけては集まりあうのがつねだけど、郊外の僕たちは適度というよりもさらに余裕を持った距離をとって、なるべくおたがいに関わらないように暮らしている。郊外の住人のなかには街の人々のことを軽蔑しているのもいるらしい(「らしい」というのは、僕は郊外の住人と個人的な交わりを持っていないから、はっきりとしたことは言えないのだ)。僕はそこまでは思わない。たまに窓を開けて、街のほうから流れてくるざわめきを聞くのは好きだし、もしあそこで暮らすほうに振り分けられていたらどうだっただろうと想像したりもする。

 

 そうやって窓を開けていたら、僕の家の前にひとりの人物が立っているのに気づいた。僕の家のドアを見つめ、ときどき意を決めかねるかのようにつま先で地面を蹴っている。僕が見ていることには気づいていないみたいで、選択の余地はあったが、結局は気の進まないほうを選ぶことにした。窓はそのまま開いたままにして階段を下り、玄関へ向かった。このあいだに彼があきらめて帰ってしまった可能性について考えながら、ドアを開けた。すると彼はまだそこにいて、こんどは僕に気づいた。意を決したようにつま先の動きを止め、僕に向かってこう言った。

 

「じつは、……お家に招いていただけないでしょうか?」

 

 彼を家に招き入れる、どんな正当な理由もないように思えた。僕には選択肢があったが、やはり気の進まないほうを選ぶことにした。

 

「わかりました。コーヒーをお出ししましょう」

 

 コーヒーを入れるのは好きだったが、上手に入れられるわけではなかった。豆の分量も量らないし、お湯の温度も計らない。蒸らす時間も、抽出の手順も一定じゃない。おかげで、悪くないものができたと思うときもあれば、そのまま流しにこぼしても惜しくないと思えるようなものができるときもある。ひとりでいるときならば、そういう振れ幅を楽しむこともできるのだけど。

 

 客の視線を感じながら(どうして、カウンターキッチンの家を選んだのか。……この世界に来たときにした選択を後悔した)ふるえる手でお湯を作り、豆を挽き、お湯を注いだ。ふだんは使わないソーサーを取りだして、カップを乗せたとき、ソーサーの表面に薄いほこりがかぶっていることに気がついた。ずっと使っていなかった物だということは頭の片隅にあったのだから、カップを乗せるまえにソーサーを拭くことに先に思い至っても良かったじゃないかと、また後悔した。

 

 そんないろいろが積み重なって、ダイニングに座る彼の手元にカップを置くまでの所作のすべては見苦しいものになったが、気にしないでいることはできた。もし彼がそれを指摘してくるのであれば、そのときは彼の無礼さをこちらから軽蔑し返せばいいだけの話だろう。彼は手元のコーヒーをちらりと見て、礼を言って口へ運んだ。

 

 そのあと、本題が切り出されるまでにいくつかの世間話があったが、ぎこちなさが先だってうまく広がっていかなかった。

 

「図書室を見せてほしいのです」

 

 それが彼の本題だった。人間は死んだあと、あの世(いまはこの世だが)で神様から、現世で読んだ本がひとつ残らず収められている小さな図書室がもらえる。僕はそのことを知っていたから、生きている間は努めて新しい本を読むようにしていた。そのかわり、人生のそれ以外の要素にはあまり注意を払っていなかった。

 

「私はあまり、本を読まなかったから。与えられた本棚のぶんは読みつくしてしまったんだ」

 

 彼は恥ずかしそうでもなくそう言って、自分の本棚の大きさを手で空中に描いてみせた。僕の家の図書室は、一階の、キッチンよりもさらに奥、外からはいちばん隠された場所にあった。そこまで彼を案内した。

 

 図書室の扉を開けて、彼を先に部屋に通すと、しばらく僕は扉のまえで主人を案内し終えたあとの使用人のように立っていた。使用人の気分に浸りたかったわけではない。彼が僕の図書室でなにをするのか、できるだけ全体的な視野が保てるような場所から観察していたかったからだ。荒っぽいことが起きることはないだろうという根拠のない確信はあったが、それでも、警戒している雰囲気を出しておくことには合理性があった。

 

 彼は振り向きかけたが、僕のほうにちらっと眼を配ったあとその動作を止め、考えを変えるようにして壁一面の書棚を見つめはじめた。あまりにも長く見つめてだけいるのが気になって、「どうぞ。手にとっても」と促すと、彼はたちまちというようなスピードでそのとき眺めていた本を手に取った。パラパラとめくって、それをもとの位置に戻した。本に興味はなく、ここで長い時間を過ごすのが目的であるかのような動きだった。ゆっくりと背表紙に目をやりながら、彼は書棚の並にそって図書室を歩きまわった。見えている範囲では最後の書棚のまえにたどりつき、そこでもおなじような時間が経過した。

 

「この書棚は、キャスターつきで、レールに沿って動かせるようになっているんですよ」

 

 彼が最後の書棚のまえで時間を使い果たしてしまうまえに、僕は種明かしをして、奥にある更なる本の存在を彼に知らせた。彼は、そのときついに僕の存在を思い出したかのような素振りをして、僕のほうをふりかえった。

 

「何冊か、本を貸してくれないか?」
「いいよ」

 

 声の調子と、言葉づかいが、ここで急にくだけたものに切り替わった。けれどこちらのほうが、はるかに自然だった。現世で彼は、僕と知り合いだったのだろうか? そんな疑問が頭に浮かんだ。

 

 答えを確かめてみようとはしなかった。どちらにせよ、死んでこっちの世界に来てしまったひとは、現世でのことをすべて忘れてしまう。ここでの永遠の住まいは、記憶との交換条件なのだ。僕はかつてどんな人間だったのかも、どれだけ生きたのかも、いつどこで生きたのかも、だれと生きたのかも、自分の名前が何だったのかすら、すべて忘れてしまっている。
 ……記憶を捨てることを拒否したらどうなるのだろう? この世界に来たときのことをまた思い出した。拒否することもできたはずだ。そうしたひとは、たしか、……ここではないべつの場所に送られるはずだった。あらかじめ与えられる住まいもなく、平穏か喧噪かという基本的な選択の権利さえ与えられない。天国というよりは、現世に似ている場所。

 

 いつのまにか彼は書棚の奥深い洞くつのなかに潜り込んでしまっていた。彼からは僕が見えるだろうが、ここから中は暗くて見えない。しばらく待っていると、彼は一冊の本を手に持って戻ってきた。僕は尋ねた。

 

「あなたって、どこから来たの?」

 

 彼はそれに答えずに、自分の質問をした。

 

「これを借りたいんだけど、いい?」

 

 それは僕のお気に入りの小説だった。話の全体には深くかかわらないところで描写を費やし過ぎたり、視点が切り替わってからの中盤の展開がまるまる退屈だったり、言葉づかいが若すぎて、すぐに古びてしまうようなものだったり、……欠点はいろいろとあったが、それをぜんぶ差し引いてもお気に入りだった。

 

「昔お前からこれを借りたときのことをおぼえているよ。そのときは読まずに返したけどな」

 

 そう言って彼は、昔の、……いまとなってはべつの世界の話をはじめた。僕たちは悪いことをする仲間で、……仲間というよりは、僕は彼にただついていく場面が多かった。そろそろ悪いことは、やめようってことになって、つぎは自分たちで思う精一杯のいいことをしていたときのこと。悪いことを考えるのは君の役目だったけれど、いいことを考えるのは僕のだった。

 

「この本を好きだった理由をおぼえている? 君の名前が書かれているんだよ、ここに」

 

 そういって彼は僕の名前を読みあげた。……いまでも細部までおぼえている、その小説のひと幕を思い出した。主人公が夢のなかで通う空想の図書館で受付係をしていて、意味深な登場をするんだけれど、テロ事件が街で起こったときに、それとは関係のないはずの夢のなかで、原因もなくあっさりと死んでしまう、そんな、いてもいなくてもどうでもいいような人物。それとおなじ名前を、僕は生前持っていたのだった。

 

「あなたってまだ死んでなかったんだ」
「そう思われるのもいいかもな」

 

 彼が探し出してきた本を、僕はもう一度、最初からめくって読み始めた。彼はたまに覗きこんで、そのページでなにが起きているかの説明をねだった。その小説の素晴らしい部分が彼にも伝わるように、僕はわかりやすい説明を心がけた。彼は興味なさそうに聞いて、「そうか」と答えた。そのあいだずっと彼の手は僕の肩に置かれたままだった。