さよならボキャブラリー


 町野くんは言葉を大切に使うひとだった。私は町野くんのそういうところが好きだったのだけれど、町野くんにとっては必要があってしているだけのことだった。「あれ」とか「こっち」とか「そうして?」とか、不明瞭な言葉ばかりを使って話をする町野くんを、はじめのころはクラスメイトみんなが不審がっていた。でもそのうちに町野くんの置かれた事情のことが広まっていって、そのあとは、言葉の不自由な留学生が友達の輪の特別な中心に置かれるみたいにして、町野くんはみんなと打ち解けていった。町野くんはそもそも、さわやかで華やかな見た目をしていたし。

 

 高校二年生の夏に、私は町野くんと付きあいはじめた。どちらがさきに告白したのかはわからない。そのときのことを忘れてしまったわけではない。むしろはっきりといまでも思い出せる。私と町野くんはお昼を水族館で過ごし、閉園時間の間際に観覧車に乗った。そのあとファミレスに入って、しばらく微笑みながら無言でいた。町野くんはとつぜん沈黙を破って、いつもの、意味のはっきりしないおしゃべりをはじめた。町野くんのおしゃべりは、指示語と機能語ばかりでできていた。名詞や動詞や形容詞が来るべき部分は、空白になっていた。語彙を節約するためのことだった。

 私たちとは違って、町野くんにとって言葉は消耗品だった。一度使った言葉は、彼のボキャブラリーのなかから消えてしまう。二度と使うことはできない。

 

「……は、そう。……そう」
「ねえそれって、私と付きあいたいってこと? 私が好きだってこと?」
「うん。そういうこと」

 

 減っていく語彙を補うために、町野くんはよく辞書を読んでいた。町野くんの部屋には色とりどりで大小さまざまな辞書がたくさん本棚に飾られていた。漢字字典や百科事典、国語辞典だけではなく、英語や韓国語、スペイン語、ほかにもたくさんの外国語の辞書や単語帳があった。生活のなかで自然に覚えた言葉とは違って、辞書で覚えた言葉は使い捨てるための言葉だった。町野くんの家を辞去するとき、町野くんは私の知らない言語でなにかを言った。私のためだけに発されて、私のためだけに消えていく言葉だった。私にとっては意味をなさないその響き、音の連なりを忘れないよう頭のなかでなんども繰り返し復唱しながら家に帰った。調べてみると、それはまたすぐに会う相手と別れるときのスペイン語の挨拶の言葉だった。

 

 私と町野くんはよくケンカをした。ケンカとは言っても、町野くんがケンカのときに口を開くことはなかった。私だけが町野くんに、毎回毎回変わり映えのしないつまらない言葉を何度も投げつける、生産性のないケンカだった。あるときそれがむなしくなって、ケンカの途中に、「町野くんも自分がそういう体質だからってなにも言わないの本当に卑怯だと思う!」とさらなる怒りを上乗せしたら、その日から町野くんは、覚えたはいいけれど使いどころのない辞書の言葉を身を守るクッションとして活用してくるようになった。

 

「通話ができないのは知ってるよ。それはいいって言ってるじゃん。だったら、メールの返信は早くするくらいの配慮を見せてくれてもいいんじゃないの?」
「小承気湯。柴陥湯」
「颯太たちといっしょにいたんでしょ? 遊びながらでも、携帯ちょっと見て返信くらいできるじゃん」
「二至丸。金鈴子散」
「もういい。帰って」
補中益気湯…」

 

 「大好き」だったり、「そばにいたい」って、町野くんから言われたことはなかった。それはしかたのないことだとわかっていた。むしろ、遠慮の気持ちのほうが強くて、もし町野くんが言ってくれそうなそぶりを見せたら、あわてて考え直すよう促したと思う。私たちはなんとなくくっついているだけのただの高校生だ。一度しか言えない言葉がふさわしいほかの相手が、このあとの人生で見つかるかもしれないではないか。

 それとも、「好き」とか「いっしょにいると楽しい」とか「会えてうれしい」なんて使い道の多い言葉は、恋愛なんてわからない幼いころのうちに、すでにぜんぶ使い切ってしまっていたのかもしれないけれど。

 

 私と町野くんは大学1年の夏になるまでつきあった。遠距離になってからは、なんとなく連絡を取るのが面倒になって、私たちを結びつけているものは私たちがつきあっているという事実だけになってしまった。別れてからはとくに連絡を取ることもなく、共通の友人もひとり、またひとりと会わないようになっていって、おたがいの近況もわからなくなった。

 

「……町野くん!」
「あ」

 偶然町野くんと再会したのは、映画館のロビーで入場時間を待っているときだった。町野くんはスクリーンの予告編映像を見つめていた。町野くんに話しかけて、もしかしてと思って買ったチケットを見せると、町野くんもおなじタイトルが印字された前売り券を取りだした。そういえば、私と町野くんはマンガや映画の趣味がとても近かった。

 劇場内の席は遠く離れていた。約束をしたわけではなかったけれど、上映後町野くんは私を廊下で待ってくれていた。そのあとは近くのダイニングバーに入ることになった。町野くんは、時の流れのなかでさらにたくさんの語彙を失っていたけれど、私の、町野くんのいいたい言葉を推測して先回りする力はまったく衰えていなかった。

「じゃあ、いまはOA機器とか、……そういう系の会社でシステム開発やってるんだね」
「そうそう」

 ダイニングバーには店主が命名したオリジナルのカクテルがあって、町野くんはそれだけ自分の言葉で注文した。私が聞きたがるから、町野くんは私と別れてからのことを話してくれた。話したというか、私の推測に、町野くんが指示語と機能語と空白だらけの最小限の言葉で、答えてくれたというか。

 

 大学4年生のときに、町野くんには二度目の恋人ができたのだという。町野くんはその子のことが、私のときよりも何倍も好きで、かすかな好意の含みしかない言葉から直球の告白の言葉まで、「好き」という気持ちを伝えるときに使うことができるすべての言葉を、この世にあるすべての言語の愛の言葉を、その子のために使い切ってしまった。就職して3年目の夏に、その彼女とは別れた。

「そうなっちゃったんだよね」

 そう言って町野くんは、弱みを晒した男がするときの笑いかたで笑った。

「私には好きなんて一回も言わなかったくせに」
「そうだね」
「愛の言葉をせっかくとっておいたのに、もう全部使っちゃったんだ」
「うん。そして?」
「かわいそうにね」
「はは」

 

 終電で帰るとき、改札のまえで町野くんに言った。

「そういえば、まだ辞書読んでるんでしょ? ……いらない言葉があったら、私になにかちょうだいよ」

 町野くんはちょっと迷って。「うーん。……いいよ」と言った。そして記憶のなかを探るために、視線をさまよわせて口元に手を当てた。私がかつて好きだった、言葉を大切にする所作だった。

「電車来ちゃう。早く」
「まだ」
「ねえ! 早くってば」
「はーい、じゃあ」

 もらったのは奇妙な響きの言葉だった。家に帰って検索してみると、それはミクロネシア少数民族の言葉で「さよなら」だった。ただのさよならではなく、またつぎにいつ会えるのかわからない、――ひょっとしたら二度と会わないかもしれない相手と別れるときのための、「さよなら」の言葉。