製氷皿の上の男


 「氷って切らしてないよね?」11時すぎに電話がかかってきた。わざわざ固定のほうの電話に。赤崎の部屋にはなぜかいまどき固定の電話があった。ほとんど使われないこの機械が使われた理由は、朝の8時から始まって、40分から一時間くらいの間隔をあけて何度かかかってきている電話を、長野伽奈がずっと無視しつづけていたからだ。「ちゃんと言われたとおりにしているよ」声から呆れや苛立ちがにじまないようにして、そう心がけていれば声のニュアンスとなって、電話の向こうにも伝わるはずの笑顔を作って長野は答えた。コールセンターで働いていたころに教え込まれた技術は、まだ有効なはずだった。


 赤崎諒野は安心したような溜息を吐いて、電話を切った。要件はそれだけだった。受話器を置いて、もうすこし眠るか、それとも活動を始めるか長野は迷った。昨夜の深酒が全身に残っていた。二日酔いというより、まだ酔っぱらっていた。仕事はお盆で休みだったけど、いくつかやらないといけないことがあった。実家の母親に今年は帰らないって連絡を、これは大至急にしないといけなかった。それから、「ううん! 大丈夫。せっかくりょうやの部屋いるんだからさ、片付けたり、常備菜を作ったりとか、なんか、できることはしておくよ。だってりょうやいま忙しいんでしょ?」って、気持ちが口を追い越して勝手にしてしまった約束を果たさないといけないと思った。そんな義理は本当はないって頭ではわかっているけれど、それでも帰って来たときに赤崎にがっかりした顔をされるのは嫌だったし、そうならないくらいには頑張れると思っていた。それに、昨日使ってしまった氷を作り足さないといけない。


 しばらくベッドに座って、これからしないといけないことのリストや優先順位について、頭の中でずっと考えていた。ときどき、いまは離れたところにいる赤崎諒野という名前の恋人のことを考えた。お風呂の終わりに体を冷やしてくるのが好きで、その冷たさで長野を包んで驚かせるのが好きな男。考えは定まらず、優先順位は揺れ動いた。順番が決まらなければ、動き出したって意味がない。長野の頭は便利な言い訳を見つけ、体を座っていたベッドの上へ倒させた。


 とりあえず、アルコールから回復しないといけない。地元への連絡はそのあとでいい。まだ、適切で、理解してもらえて、罪悪感を感じずにいえる言い訳を思いついてない。冷蔵庫に入っているペットボトルは空だった。グラスに流水を注いで、そのあと冷凍庫から氷を取り出して入れた。最後に一つだけ、かけらのような氷が残っていた。昨日は氷を使いすぎた。氷は全部、アルコールの溶解熱の中に溶けていった。赤崎がいない間、赤崎の部屋に泊まっててもいいという約束だった。恋人のいない恋人の部屋に泊まることは、長野にとっては、恋人のいる恋人の部屋に泊まるのと同じくらい心の踊ることだった。その別れ際に赤崎が、情けなく、真剣な声で言ったのを思い出した。「部屋にいる間、氷を、切らさないようにしていてほしいんだけど」


 製氷皿をひねって氷をスペースに落とそうとした。氷は固く皿の上にへばりついていた。南極のようにずっと凍っていたんじゃないか、と思えるくらい固かった。やっと二つか三つを、製氷皿の小さな個室からひねり出すことができて、一つだけを冷蔵庫に残して、残りをグラスに入れた。揺らしてかき混ぜるうちに手が冷えてきた。もう一度、赤崎の体温を思い出した。そのときまた固定電話が鳴った。「本当に、お願いなんだけど。氷はちゃんとしてる? 絶対に、絶対に使ったらすぐ補充してほしいんだけど」


 赤崎と長野はふたりとも自分の人生が最低の時期にあると感じているときに出会った。第一印象ではお互いを軽蔑したが、そのあとはお互いのことを、あるとつい何度も覗いてしまう鏡のように思うようになった。初めのころ、赤崎の服装や表情、喋りやしぐさは、改善すべき点がほったらかしにされているような覇気のない感じがしたが、それは長野のほうもまったく同じだと自分で分かっていた。しだいに、表面に現れている以上の奥のものがわかるようになってきて、それは赤崎の惨状に、必ずしも似合っているものじゃないように思えてきた。もっと多くのものがこの恋人には期待できると確信するようになった。自分だって同じだと思った。長野は仕事を変え、赤崎も仕事を変えた。長野は部屋を変えなかったが、赤崎は変えた。それからは、半年ごとに一つか二つ、月額で料金を支払うサービスの契約を増やしてきた。そのたびに長野は自分の人生が正しい方向に向かっていると信じることができた。


 作ろうと思っていた常備菜を作るのには不足しているものがあったので、スーパーに行った。外を歩いていると体調がとてもよくなってきたような気がした。すこし前向きな気分で買い物を済ませることはできたけど、その途中の早い段階で、家で氷を作るのを忘れてきたことにも気づいていた。家に帰りつくとまた電話が鳴った。「氷、ちゃんと作っておいてね」今度はお願いするような声だった。対等な大人ではなく、子供に言い聞かせるような声。電話を切って私は、どうして赤崎のこんなおかしな妄念に付き合わなきゃいけないのかと思った。「氷が、冷凍庫の製氷皿に、一杯になっていないと、おかしくなっちゃうんだよ俺は」そんなことをしなくても大丈夫だって、私の直接の行動で示してあげたほうが赤崎のためになるんじゃないかと思った。赤崎も長野もこれまでずっとよく頑張ってきたけれど、もともとが育ちのいい品種じゃない。傷があちこちにある。完璧の一流品にはなれないとしても、傷をふさいだり、見えないようにしたりする努力は一生続けていきたいと思っていた。私はいくつかの常備菜を作り、その過程で氷を使った。埋まっている製氷皿の個室は、いまは半分くらいになっていた。


 「お願い。かな。……氷を」つぎの電話は同情を誘うような声だった。「俺には氷が必要なんだよ。……この仕事にも。……ごめん、行かなきゃ。また、連絡する。でもね、俺にはわかってるんだよ。かなのことはぜんぶ。だって、氷が」弱弱しい声を聴いても、苛立ちしかわいてこない自分が悲しかった。


 どうしてそんなに氷が重要なのか、赤崎は長野にちゃんと説明できなかった。次の電話に出ると、赤崎の息はかすれていた。なにかがあったようだけど、声はつぶれていて聞こえなかった。「氷」。そのとき氷は、長野の手元のロックグラスの中でひしめき合って揺れていた。昨日買ったウィスキーのボトルは空いていて、今日スーパーで買い足した二本目がテーブルの上に直立していた。傷をふさいだり、見えないようにしたりする努力は一生続けていくべきだと思っていた。それなのに、どうしてか失敗してしまうことが多かった。


 最後の電話が鳴ったとき、時間は夜の八時で、二人はお互い、空間の中を永遠といえるほど遠くに離れていた。赤崎は電話で、氷のことを長野に告げた。長野は酔っぱらっていて、赤崎は死の際にあった。これを使ったらもう氷はなくなってしまうということを知っていながら、これまであった出来事を、自分が傷ついたことをすべて忘れてしまおうとして、長野は新しい一杯を作った。それで、冷凍庫の中の氷は、ひとつもなくなった。