ささやき姫


 ぼくのクラスには姫と呼ばれているお友だちがいた。だれが姫って呼びはじめたのかはぼくは知らないけれど、理由はわかる。そのお友だちはいつも長いふわっとしたスカートを着ていたっていうのと、名字が姫川だったから。先生ですら、ふざけて姫川のことを「姫」と呼ぶこともあった。姫は返事をしなかった。姫っていうのが姫川にとって嫌なあだ名なのか、そうじゃないのか、ぼくにはよくわからなかったから、いちおう、姫川のことは姫川と呼ぶことにしていた。クラスにいるお友達のことは全員お友達と呼ばないといけないことになっているからそう言っているけれど、姫川はぼくの本当の意味でのお友達じゃなかったので、話しかけることなんてなかったけど、もし話しかけたときはそうしようと思っていた。


 このまえ、給食当番がいっしょで、みそ汁が入っているいちばん大きい、重い食缶をふたりで給食室から運んでくることになって、いつもよりたくさんの量が入っているのか、それともじゃがいもとかにんじんとか重い具がたくさん入ったメニューなのか、理由はよくわからなかったけれど、男子のぼくにとっても意外と重かったから、女子の姫川さんにとってはもっと重いんじゃないかと思って、確認したくなって、ふだんは女子に話しかけたりはしないんだけど、当番のときだから大丈夫だと思って、姫川さんに話しかけた。「ひめかわ」
 姫川はぼくのほうを向いたけど、なにも言い返してこなかった。

 

 姫川はクラスの有名人だった。PTAでもとても有名みたいで、ぼくのおとうさんすら姫川のことを知っていた。姫川が有名になったのは、入学してちょっとたったときの、国語の時間だった。ひらがながおわって、音読のテストがはじまっていた。教科書に書いてある文を、先生に名前を呼ばれた順に席をその場で立って、読んでいく。読み終わったら、座る。姫川の前にいたお友達が座った。「次、女子13番の姫川万梨奈さん」と先生が言って、姫川の番になった。姫川がイスを引く音がして、姫川が立ち上がったとわかった。そのあと、姫川はずっと無言だった。


 いつのまにか顔をあげて、みんなが姫川を見ていた。「呼ばれてるよ!」女子の松原が窓がわからおおきな声で注意した。姫川はまっすぐ立って、目のまえの教科書を見つめていた。ピンとしていて、ゆれずに立っていた。ずっとずっと、なにも言わなかった。
 先生がつぎの出席番号を読むと、姫川はしずかに席にすわった。男子14番の木崎が音読をはじめた。

 

 その日から、クラスのほとんどが姫川のことを姫とあだ名で呼ぶようになった。姫川はどんなときもひとこともしゃべらなかった。「なんでなにもしゃべらないの?」って聞かれてるのを見たことがあるけれど、姫川はなにも答えなかった。クラスにはいろいろなお友達がいて、みんなとなかよくしなきゃいけないよ、そうしないと戦争もなくならないよ、って言って、先生は姫川にちょっかいをかけるお友達を叱った。先生は授業では姫川の番を飛ばすようになった。音楽のときはどうしてるんだと思って注意して見ていたら、カスタネットは普通にたたくみたいだった。うたはうたわなかったけれど、かわりに、長いスカートにかくれてよく見えない足もとで、規則ただしくリズムをとっていた。


 六月とか七月とか、終わるラストの日にはかならず席替えがある。先生と日直が協力してくじを作って、みんな自分が引いた番号に席を移す。目がわるいお友達は特別で、いちばん前の席になる。大移動が終わったあと、姫川はいちばん後ろから二番目の列に座っていた。姫川がひと言もしゃべらないのは、目がとても悪くてなにも見えていないからなんじゃないかって思ってたけど、ちがうみたいだった。姫川がこっちを向いたので、天井を見ていたふりをした。電気がちかちかとついたり消えたりしていた。

 

 秋になって、ぼくは姫川のとなりの席になった。みんなとおなじように、机をくっつきはしないようにすこし離したあと、ちょっとだけ離しすぎたかなと思って、またちょっとだけ、くっつかないように近づけた。これから、給食とかグループ活動のときは、姫川以外の三人でになることになるな。姫川のうしろの席にいた女子の松田は、給食をいつも残していて、とくにお肉は食べられないといってぜんぶ残していて、それをこれからはぼくにくれるって言ってくれたので、給食が楽しみだった。


 給食のまえに国語があった。図書館の先生が来て、「担任の前野先生は、子供が熱を出したから、いそいで帰ったので、先生がかわりに授業をします」といった。音読がはじまって、ぼくのとなりで、姫川の順番が回ってきた。姫川はイスを引いて立ち上がった。「先生ひめはしゃべらないよー」ってすぐ前にいる大野が図書館の先生にいう。

「きのおおきな、たぬきと、いじわるな、こねこは」

 ささやき声が聞こえてきた。ぼくは後ろと左と前と上を見て、そのあと、姫川のいる右を見た。姫川の口元が、教科書に隠れていて、ぼくだけが見える角度だった。かすかにうごいた。ささやき声は聞こえつづけている。「むらのかわのなかにいる、かえるが、」
 大野以外にもほかのお友達たちが、姫川のことを知らない図書館の先生に説明していた。しずかにしてって思った。だって姫川はいましゃべっているのに「くろいあまぐもが、そらを、ながれて、あめがふってきました」だれも聞いていない。図書館の先生は姫川のうしろにいる松田を指さした。松田がたちあがって音読をはじめた。姫川は席に座って、教科書で口元を隠した。「すながさらさらとながれて、えをかきました」姫川はささやき声で音読をつづけていた。

 

 だれも気づいていなかったことにぼくがはじめて気づいた。姫川はなにもしゃべれないんじゃない。そうじゃなくて、ぎゃくに、とってもおしゃべりだったんだ。その国語のときだけじゃなかった。つぎの日の算数も、せいかつも、図工も、ずっと姫川はしゃべり続けていた。教科書を読んでいたり「みじかな、いきもの、こんちゅうは、どこだろう、さがして、みつけてみよう、みつけたら、なまえを」1から100までの数を数えていたり、ABCを言っていたり「えぬえむえん、おー、ぴい」席の順にお友達みんなの名まえを呼んだりしていた。どこから思いついたのかわからないことを言っているときも多かった「こくばんけしが、よるのうみをおよいでいます。せんぷうきが、ほしと、まわっています」教室にあるいろいろなものが登場人物になっているおはなしみたいだった。


 いつのまにか、先生のお話じゃなくて、姫川のささやきに耳をすましていた。すまさなくても聞こえてくるけど、すまさないと聞きとれない、ちょうどのおおきさの声だった。「こくばんけしは、すなはまで、かぜでかわかしました。かるくなりました」

 どうして、こんなにしゃべっているのに。「にじがばたーのように、すべって」お友達のみんなは、先生は、姫川がしゃべれるってことに気づいていないんだろう。「うちゅうのはてにつづく、みちをつくりました」姫川も悪い。だって、もっと大きな声で最初からちゃんと話してたら、みんなに特別あつかいされるなんてなかったと思うのに。「こくばんけしは、はてで」

 

 姫川と目が合った。ぼくは姫川の顔をはじめてしっかりと見た。いつのまにか、姫川のささやきがとまっていた。先生は遠くのお友達の名前を呼び、授業はぼくたちの知らないところですすんでいた。「つづきは?」僕は姫川にささやいた。「とおくへいったこくばんけしの、つづきはなに?」

 

 そのつぎの日から、ぼくは姫川がちゃんとしゃべれるってことをみんなにわからせようとして頑張った。おなじグループの松田や亀川はそんな声聞こえないって言う。まえに姫川のとなりの席だった野島に聞いてもそんなささやき声は聞いてないって言う。ぼくは姫川のレースのついた長そでを無理やり引っ張って野島のところに連れてきた。そこまでは姫川はぼくの言うことを聞いたのに。「ねえ!」なんどぼくが言っても姫川はおしゃべりの続きをしなかった。先生のまえでもおなじだった。ひょっとしたら、姫川の声はぼくだけにしか聞こえないまぼろしの声なんじゃないかとなんども思った。けれど、姫川のおしゃべりを聞くとわかるんだけど、これはまぼろしじゃなかった。ほんとうにあった。


 ちょっとして、クラスのお友達がみんなぼくが姫川のことが好きだと言ってくるようになって、とてもいやな気持ちだった。そうじゃなくて、姫川がしゃべっているってことを、みんなにも知ってほしかっただけだった。それなのに、姫川のささやき声は、ぼくがどんなに頑張ってもぼくだけのものだった。

 

 そのあと、また席替えがあって、ぼくと姫川の席はとおく離れた。いつも聞こえてきたささやき声は、聞こえなくなった。ぼくは一回だけあたらしく姫川のとなりに座った里田に聞いた。里田はなにも聞こえないよって言った。それですこし安心して、ぼくはもう姫川と関わるのをやめた。近くを通るときは、息を止めて無視して耳が聞こえないようにした。すぐそばを通るほんの一瞬だけ、たしかに空気がかすれるような声が聞こえてきたような気がするけど、ううん、もういいやっておもって立ちどまらなかった。とおくから、かわりに姫川の顔を気づかれないように何度か見た。あいかわらず、音楽のときにはカスタネットを叩き、足を揺らしていた。ささやくだけじゃなくて、ちゃんと声をおおきく、話せばいいのに。きっとみんな、姫川の言葉を聞きたいって思ってるはずなのに、って思った。

 

 進級してあとは、姫川とはべつのクラスになった。さらに進級して、進級して、年が増えるごとに去年とはまったく違う人間に成長しながら、僕はいつのまにか6年生になった。

 

 姫川のことは忘れていた。だれも姫川のことなんて覚えてなかった。授業を勝手に抜け出して、保健室へ向かっている初夏の火曜日の2時間目の授業中だった。すれ違った教室の窓際の席に、姫川がこっちを向いて座っていた。目が合った。

 本当に、本当だよ? その瞬間まで姫川のことは忘れていた。だって、1年生のころに一度だけクラスメイトになっただけの女子だし、仲が良かったわけでもない。話したこともない。……ただ。

 その瞬間に思い出した。姫川から聞かされたいろいろなことを。あのささやき声の肌触りを。

 まだ、ひと言もしゃべらないままなのか? 姫って呼ばれてみんなから特別扱いされているままなのか? それとも、……もう、姫の噂なんて誰からも聞かないし、ってことは、どのクラスにもいる、ふつうの、目立たない大人しい女子になったのか?

 長いふわっとしたスカートを着ているのかどうかは角度で見えなかった。それに僕は姫川の顔を見ていた。

 姫川はすれ違っていこうとする僕に向かって、唇をわずかに動かした。

 声を出した? 僕になにか言った? ……わからない。そのささやきは、僕たちのあいだにあるガラスの窓に阻まれて、誰にも届かなかった。すくなくとも僕には、なにも聞こえなかった。