恋を忘れさせてくれるアプリ


 「恋を忘れさせてくれるアプリ、って昔、流行ったよね。ほら、私たちが高校くらいのとき」夕方のパーキングエリアで、私は野田君にそう切り出した。「この話、いままであんまりだれにもしたことなくて、仲いい友達にもしてないの。はじめて、野田君に話す」いままで出会ったどの男の子よりもやさしい野田君は、すこし不思議そうな顔をしていたけど、すぐに話を聞くモードにきっちり入って、私の言葉を待ってくれた。

 「恋を忘れさせてくれるアプリ」は有名な都市伝説だった。だれが言いだしたのかはわからないけれど、いつのまにか広まって、みんな知っていた。ふつうの方法ではダウンロードできないんだけど、無料ゲームで遊んでいるとまれに短い広告が出てきて、その短い間に広告をタップすることができたら、そのときにだけダウンロードできる。LINEに似ているけど色だけは違っていて赤い画面のアプリ。データもLINEと共有しているらしくて、LINEに登録しているひとならだれでも登録なしで使えるということだった。

 そのころ、私は恋をしていた。高校1年生のころで、相手はその年に先生になったばかりの数学の先生だった。最初の授業の日、この先生は頭がいいということに気がついた。ほかの先生はただ、教科の内容をそのまましゃべるだけの授業をしていたけど、北原先生だけは、だれにでもわかるような言葉や例を使って、教科の内容をわかりやすく説明してくれた。

 私たちと年が近いということもあって、北原先生は授業の前後にはクラスで中心になって騒いでいる男子たちと砕けた言葉で雑談をよくしていた。私だけではなく生徒の大半から慕われていたけれど、私のように思っているのはほかにはいないみたいだった。北原先生は既婚者ではないと、何度目かの授業で自分からばらした。彼女がいるかどうかという質問ははぐらかしていたけれど、そこは気にならなかった。先生をひそかに好きでいてもいい最低条件は、先生が独身であることだと私は思っていた。

 夏休みが始まるすこし前のある日、返却されたテストの見直しをしていて、解答と解説を読んでもよくわからないところがあった私は、数学科の職員室に北原先生を探しにいった。北原先生は机に座っていて、手で折り鶴をほどいていた。数学よりも先に、なんでそんなことをしているのか尋ねた。私の前に質問に来た生徒が、机にあった付箋紙で鶴を折って帰っていったから、それをほどいていたんだと先生は言った。先生のやわらかな手のなかで、鶴は紙に戻っていった。なんでそんなことをしているのかの答えにはなっていなかったけど、私は満足して、先生に数学の質問をした。

 終わりぎわ、北原先生は机を開けて、なかから夏休みのカレンダーが書かれたプリントを取り出した。印がついている日は数学科の職員室が開いている日だから。先生はそう言って、印がついている日のうちまたいくつかに青ペンで別の印を書き加えた。北原先生が在室している日という意味だった。その、印が二重についた日のうち何日かを学校で勉強する日にして、私はその年の夏休みを過ごした。

 三学期のある日に、北原先生が学校をたった一年で離任するというニュースと、三月に結婚式を挙げるというニュースが流れた。私たちのクラスでは、先生の結婚式で流すための映像を撮って、それを学年主任の夏木先生に預けた。

 三学期のべつのある日に、私はアプリをダウンロードした。短い広告が画面の下端に映って、気づいたらタップしていた。本当にこれがあの噂のアプリだとは思っていなかった。都市伝説が広まっているのを利用して、偽物のアプリもたくさん流れているらしいと聞いていた。いつの間にかダウンロードが終わって、自動的にアプリが起動した。先生とは、夏休みのあいだにLINEを交換していた。アプリの画面は、噂どおり赤かった。「友達はまだいません」と表示されていた。「追加してみよう」という表示を押した。偽物のアプリのなかには詐欺アプリも多いって聞いていたから、慎重になって表示を押した。すると検索画面が出てきた。私は、先生のLINEの名前を入力した。LINEとデータを共有しているって噂も、本当だったみたい。北原先生と同姓同名の名前がいくつか並んで、そのうち、北原先生のアイコンを押した。「友達に追加する」という意味の、緑色の「+」ボタンのかわりに、知らない意味の赤色の「+」ボタンがあり、意味の想像はなんとなくついた。そこで、きゅうに怖くなった。これは、本当の、「恋を忘れさせてくれるアプリ」なの? ボタンを目のまえにするまで、ボタンを押したいのかどうか、私にはわかっていなかった。成就する見込みはないのだから、忘れてしまうほうが都合のいい感情なのは間違いない、そうは思った。それでも、すこし悩んで、そのあと、悩めば悩むほど強くなる胸の苦しみから逃れるようにそれを押した。

 私はそこで、野田君の質問を待つために黙った。野田君はすこしして、私に聞く。そのあいだ、今朝スタンドで車内清掃をしたばっかりのような清潔で無機質なにおいが鼻をくすぐるのを楽しんでいた。

「そのあと、どうしたの?」
「こわくなっちゃって、アプリも消しちゃった」
「なにか自分の身に危険なことはなかったの?」
「なかった」

 毎日はなにも変わらなかった。私は普通に学校へ行き、北原先生も授業をした。わからない問題があったら、時間を見つけて先生に聞きにいった。まえはあったはずの強い思いだけがなくなっていて、……それでなにも困ったことはなかった。それまでの人生とはなにかが違ってしまったはずだって思うけど、なんの違いも感じることができなかった。

 3月のある日、春休みのカレンダーに二重の印はついていなかったけれど、私は数学科教室に行った。今日が北原先生が出勤する最後の日だということはべつの先生に聞いて知っていた。「一年間お世話になりました。これ、私からのお礼です」そう伝えて、なにか品物を渡した。「奥さんと一緒に使ってください」北原先生はそれを聞いて、笑いながらお礼を言って受けとった。

 なんの気持ちも湧かなかった。あの日、アプリに恋を忘れさせてもらっていなかったら、今日はきっと耐えられない日だったんだろうな、と思うと、耐えられなくてすこし涙が出るような気がしてすこし待ったけど、涙は出なかった。

 今日は朝から、野田君が親戚から借りたっていう乗り心地のいい車に乗って、ひとつ隣りの県の海を見にいって、その帰りだった。とても気持ちのいいデートだった。野田君は私のことがとても好きだし、私は野田君のことがとても好きだった。

「けど」
「けど?」

 野田君はとてもやさしい男の子で、私が言い淀んだ言葉を聞いてくれようとして疑問形を重ねる。

「私のいまの好きっていう気持ちは、昔忘れてしまったあの好きとどう違うのか、たまに考えちゃうんだ。……ほら、忘れちゃったから、もう確かめようがなくて」

 その日は、つぎの朝もふたりとも予定がないことまで確かめあったうえでのデートだったけど、そのまま送ってもらって帰ることになった。深夜のLINEで、野田君から別れを告げられた。

 

 野田君がはじめてじゃない。あの、最初の恋のあと、私はなんども、自分が好きになれる人を見つけて、いろいろな恋をして、おなじように別れてきた。ただ、答えが欲しかった。新しいひとを恋するときのこの気持ちが、あのときの忘れてしまった恋の気持ちと比べてどうなのか、おなじなのか、違うのか、答えはなんでもよかった。

 

 どんな答えが出たって、私はそれを受けとめるつもりでいるのに。答えは決して、返ってくることはない。