ヘッジス&バトラー ほか

 

菅野選手が多すぎる

 MNB48の堀詩音さんが、北海道コンサドーレ札幌のグッズをひたすら開封する動画が好きでよく見ている。開封するのはストラップのように使えるミニペナントで、コンサドーレ札幌の全選手*1の顔写真が印刷されている。

 「それなりに数があるので、推しを引き当てるのは大変そう」「うしろのコルクボードに文字が書かれたボードが、絶妙に適当な手作り感があって面白い」「10人ひいた段階でうち8人がゴールキーパー、フィールドプレイヤーは早坂選手のみ、という絶妙な引きの悪さ」などが面白がれるポイントである。

 

 北海道コンサドーレ札幌のファンのひとりとして、ニューシングルの総選挙、応援しております。

 

ヘッジス&バトラー

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 飲んだことがない1000円スコッチを見かけるとうずうずしてしまう。1000円なのでべつにおいしい期待ができるわけではないのにちょっと家に帰るのが楽しみになるのはなんでしょうね。実績解除欲の高まりがそうさせるのか。

 

 このヘッジス&バトラーは(年数が書かれているものは)天皇に献上されたこともある由緒正しいお酒らしい。シンプルな名前と頭文字を強調したボトルもかっこいい。

 味はまあ、1000円のスコッチらしい味で、ちょっといやな感じと言えばそうなのかもしれないけれど、もっとおいしくないものと比べたら格段に飲みやすい。水で割るとかなり甘くなるけど、個人的にはちょっと荒いストレートのほうが好み。

 

 とはいってもまあ、最終的には味が大差なくなるくらい炭酸で割って飲み干すので、味はおまけ程度。どうでもいいっちゃどうでもいい。そのへんが1000円ウイスキー実績解除の魅力という気もする。

 

The Long Face

 最近この曲をずっと聞いていて、この曲にめぐりあえてよかったと思っている。勢いのあるはじまりから、ずっと気持ち悪さと軽やかさが絶妙なバランスで続いていくサイケデリックでポップな曲。焦燥感のあるコーラス部分を抜けて、間奏のこれもまた気持ち悪い音色のギターソロがぐってくる瞬間の僕の気持ちはかなり最高になる。

 

 カンタベリーの学校で出会った5人組で、いまはリーズに拠点を置いているというこのバンド、今年の7月にデビューEPをリリースしたばっかりらしい。

*1:正確にはいまはいなくなってしまった鈴木武蔵選手とク・ソンユン選手、それとマスコットのドーレ君と監督のミハイロ・ペトロビッチのものもある。

漫才をやったことが

 

 僕はある。ひとのまえで漫才をやるというのは個人的にはとても難しい経験で、いまでもあのときの緊張と吐き気を思い出すことができる。思い出そうとせずとも、すべっているプロではないひとの漫才を見たときとか、そのときのことが勝手によみがえってきてしぜんとうずくまってしまう(精神医学の用語ではフラッシュバックにあたる経験である)。思い出というよりはトラウマなのかもしれない。

 

 最初にやったのは高校1年生のとき。住んでいた学生寮で行われる夏祭りに、1年生の男子はなんらかの芸をさせられるという制度があり、そこでもうひとりの同級生(学年で1番のイケメンだといわれる男だった)と漫才をやることになった。

 やったことないけど、漫才、俺にはできるだろ…、うし! 全員笑わすぜ!と思っていた。しかしその時期の僕はとても陰キャで、クラスでは非常に浮いていた(僕がクラスになじめるようになったのは「火の鳥」というギャグでクラスメイト達に発見される10月くらいのころだった)ので、なんでそこまで自信があったのかいまとなっては思い出せない。べつに漫才が好きとかだったわけでもない。まだ自分のことをシンプルに無敵だと思っていたのだと思う。

 

 そのときは、みじめなほど場が凍るわけでもなく、かといって、身内のやさしさ以上の笑いが起きるわけでもない、ふつうの感じで終わった。

 

 高校2年の冬に修学旅行があり、それが漫才をやった2度目、……そして最後である。修学旅行に際して、学年の有志があつまり、くじでシャッフルして漫才コンビを作り、修学旅行まで練習して旅行当日に旅館でネタを見せ合う、……そういう企画が行われた。

 僕とペアになったのは、中学校時代の友人によると「あいつを倒したい、と友人の全員が思ってある日10vs1くらいで奇襲を仕掛けたんだけど、最終的に立っていたのはあいつだけだった」というくらい体幹の強い男であった。体幹とおなじくらい面白さでも知られていて、学年でもいちばん面白いといわれていたのではなかったか。

 

 僕も僕でそのころには「勉強もできて面白い」という良い立ち位置を確立していたので、このペアは優勝候補と目されていた。ネタの打合せもスムーズに進み、手前味噌ながら、かなり自信のあるネタができた。

 練習終わりのある会話を再現しよう。

 

ぼく「面白いのできたじゃん!」

相方「いや」

ぼく「え?」

相方「まだだ」

ぼく「そうなのか?」

相方「自分のネタをやって、自分で面白いと思っているうちは練習が足りない。面白いとおもえなくなるまで、なんども繰り返してやろう」

ぼく「……! やろう!」

  京都の旅館の和室に忍び込んで、身内20名くらいのお笑いショーがはじまった。ネタの面白さどうこう以前に、ふだんから遊んでる友達たちが、それぞれ自分で考えて練習してきたものを見ることがおもしろくないわけがなく、ずっと笑っていた。し、あのときのネタはみんなそれぞれのオリジナリティがあって、みんな恥ずかしがらずにやりきっていて、身内びいきなのかもしれないけれど、本当に全員が面白かった。すべったひとはひとりもいなかった。

 

 そして僕と相方の友達の番がくる。これがいま思い出すのもつらいトラウマである。つかみは僕の考案したボケだった。はじめてのデートという設定で、待ち合わせ場所に待っている相方の友達のうしろに気づかれずに忍び寄り、後ろから急に「なーぜだ?」といいながら眼をふさぐいたずらをする。これがけっこう面白かったんですよ。めっちゃ面白くないですか?

 実際、さっきまでとはトーンの違う笑いが起きていて、こんな身内の遊びのなかで、身内を超えた面白いことができた! と思って、うきうきした。ステージに立つって素晴らしいことなのかもしれないと思えた。

 

 そのあと、すこし込み入った早口の言葉でボケるところで、3回連続くらい僕が噛んでしまって、……そのままやりきればよかったんだけどってその晩は反省したし、なんならずっと心に引っかかっているが、とにかくその場は、「ごめんなさい!」と謎にみんなのほうに謝って、つぎのボケに進んでしまった。その瞬間、身内の遊びのトーンを超えたと思っていた盛り上がりは、ちょっと同情するような身内のやさしい笑いにかわった。それが情けなくて悔しかった。

 

 はるか時間がたって、あのころの友人たちとは幸いにもまだつき合いがある。飲み会のときなどに、この修学旅行の施設ドリームマッチの話になることもある。「たのしかったよね!」と口では言うけれど、あのときのすこしのミスのあとの選択を、そのたびに苦々しく思う。

 動画が残っているらしく、だれかがデータを持っているらしいが、……正直見返したくない。そのあとはいまのところ一度も、漫才をやったことはない。

野々村社長のチーム~20’J1リーグ第29節 横浜F・マリノスvs北海道コンサドーレ札幌~

 

 しばらく見ないうちに、前半と後半ではかなりやりかたを変えるチームになっていた。この横浜F・マリノス戦で前回輝かしい成功を収めた0トップ・マンツーマンシステムを採用した札幌だけど、今回は微妙に上手くいかない。

 

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 札幌のプレス開始が早かったのか、マリノスの作戦なのか、ずれが生まれていたのはマリノスサイドバックと、札幌のウィングバックがかみ合うところだった。守備時最前線の位置に立つチャナティップ選手と駒井選手は相手のセンターバックにプレスをかけるのだけど、相手サイドバックにたいして札幌ウィングバックがプレッシャーをかけることができず、サイドを経由して簡単にプレスが空転させられる展開が序盤は目立った。

 もうここは思い切っていくしかない(行ってダメだったらあきらめるしかない)札幌のシステムなのだけど、思い切って行けていた前回に比べて、選手に迷いがあったのかもしれない。

 このかみ合わなさはすこしずつ改善されていくのだけど、求める形である「相手サイドバックで時間と空間を奪い、プレーの余地を限定してから、中央に出てくるパスを奪う」という形を作るには至らなかった。

 

 前半は攻撃にも問題を抱えていた。いい形で中盤で前を向いたシチュエーションでも、狙われるのは裏へのキーパスばかりであり、デイフェンダー全員が横並びになってカバーの意識が強かったマリノス守備陣にうまく対応されてしまった。

 いったん攻撃を作り直して、そこからでもフィニッシュにいたれるんだぞ、という形を何回か見せていれば、マリノスDFも1人か2人くらいは迎撃に出てこざるを得なかっただろう。迎撃に出てきたときにつく裏こそが、決定的なチャンスにつながるのだ。

 

 後半では選手を3名入れ替え、まずは性急な相手最終ラインへのプレッシャーを止めた。プレッシャーをかけるのはバックパスが出たときとか、なんらかのきっかけでマリノス守備陣に空間と時間のディスアドバンテージができたときである。攻撃時は、裏だけではなく、トップに持たせたり、後ろで回したりして、本来の札幌が持っている形を繰り出せていたと思う。

 

 ミシャ監督はこういうことを言っていて、実際に前半はそういう戦いをした。メディアに言っている以上、相手は必ずそれを知っている。チョキを出すと宣言しつつチョキを出して戦ったようなものであり、しかもたまにグーやパーを織り交ぜますよと言うようなチョキではなく純粋なチョキだった。その状態で戦った選手のクオリティをどうこう言うことはできないように思う。

 

 現有戦力を使ってマリノスに勝とうと思えばやれることはいろいろあったと思うが、あえてそれをしなかったのは、今年は降格がなく入場料収入も望めない、特別なシーズンだったからなのではないか。

 

 ミシャ監督は札幌に就任してから、いまいる選手の能力から逆算するようなシステムでゲームに臨むようになった。札幌というクラブが監督のニーズに応えて選手を連れてくる、ということができるほど裕福なクラブではない、というのがその根底にあるだろう。ミシャ監督と野々村社長のあいだにはこの点で、協調行動をとっているように見える。社長はクラブをおおきくすることを第一に考えていて、監督は社長の意図を汲み、そのなかで最大限クラブの利益になるように毎試合に臨んでいる。

 クラブの利益になる試合への臨みかた、とは、保有している選手の市場価値を高めるように戦うことであり、それは目先の一勝を毎回狙うことと必ずしも両立しない。横幅と縦の幅を使うこれまでの戦いかたとは真逆の、マンツーマンで相手の判断能力を奪い縦に早く圧殺する最近の0トップシステムを採用したのも、それが理由なのではないだろうか。北海道出身の若い選手を最大限起用できるのがこのやりかたなのだから。

 負けが込んでも降格はないし、もともと観客は上限が5000人なので入場料収入も落ちないだろう。「スペクタクルなサッカーをする」ことを目標として掲げることで、ファンの心を繋ぎ、そのあいだに、勝ち負けをある程度度外視してこの長いプレシーズンを戦う。

 

 程度の差はあったが、野々村社長が就任してからずっと、このチームは社長のチームであったのだと思う。ついていくしかないですね。

 

 とはいえ、ずっと結果が出ないと選手も自信を無くすし、自信を無くして思い切れない状態のプレーになっちゃったら肝心の成長も阻害されてしまうのでは?と思うので、どこかでは上昇気流にのらないといけない。このままやっていても、シーズンのどこかではこれが好転するという目論見でいるのでしょう。信じて応援していこうと思います。

短い金曜日


「たったいま最高の一行を書いたところなんだ」
同居している作家がそう言ったから
僕たちはすべてを終わらせて散歩に出かけた
河川敷は夜を引きずったままの朝だった
短い金曜日

 

作家はついに死を振り払った鬱病者とすれ違ったが
僕はすれ違わなかった
僕はひとつ世界を守ったばかりのディベート選手とすれ違ったが
作家はすれ違わなかった
僕たちはおたがいに反対のほうへ進んでいたのだ
短い金曜日

 

どうして今日なのだろう
ブルーシートをふたつに折り畳み
わざわざ狭くして座っている四人家族は嘆く
どうしても今日なのです
さっきのディベート選手が
諦めの早さにかけては並ぶものがない若者を説得する
トライアスリートたちだけは
無心のまま川をさかのぼっている
来週に迫る大会は決して開かれないはずだ
短い金曜日

 

鳥は逃げ場所を探し
楽家は玄関チャイムを鳴らす
会計士は三角だけでできた表が
ひょっとしたら作れるのじゃないかと試みる
魔法使いの少女は今日起こることを
ずっと昔から知っていて
その恋人の平凡な少年は
それを教えてもらえなかった

 

天文学者は空を見ない
代読者は文字を読み上げる
教えてもらえなかった少年は平凡な屈辱を感じ
黙っていたということは少女にとって
短い人生の中心のようなものだった
忍者の末裔は谷の隠れ里へ帰省し
内装業者は自室をサウナにする

 

短い金曜日は
お昼の11時で終わることになっている
予測された時間に間に合うように
彗星はすこしずつ近づき
東の空にきらりと姿を現す

 

僕は作家と合流し
最後の数分間を過ごす
世界はきらめきながら終わる
僕は作家に、本当はお前も昔っから知ってたんだろ、って聞く
人間は二種類いて
知っているひとは知っているし
教えてもらえないやつはぎりぎりまで教えてもらえないんだ

 

作家は馬鹿だなあって笑って
「俺も知らなかったよ」と言う
「隕石が落ちる話ばっかり書いたけど、知らなかったよ。間抜けさ」
そのちょうど瞬間に
世界はきらめきながら終わった
短い金曜日

ポストの根もとの土に

 

ポストの根もとの土に
眉毛を描くペンとあわせて
埋められた愛の結晶は
そうなっても更新がなく
ひとときの旅行の心が
知らずに上を通りすぎるだけ

 

魔法の解けたじょうろを
冷たい朝顔の水でいっぱいにして
乳児に持たせて
自由にしてねと声をかけても
雨の日の群衆の
悪気のない悪戯が
会える日を遠く遅らせる

 

距離に立ち向かって
おたがいを想いあうことの
なにかが恐ろしい

 

灰皿のようになったポストを
羽のようになった右手で拭き
複数形の一人称で
山に向かって叫んでみても!

 

いまひとときだけは
忘れなさいという導師の導きだけが
オフラインになっても
髪をかきあげる
薬指の周りに居座り続ける

この人を見よ、「犬ちゃんねる」

 

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 犬さん、というインターネットで有名(フィリピンのカジノで破滅する様子がツイッターでバズっていてそのときにファンになった)なギャンブル依存症のかたがいて、そのVlogがとても面白くてずっと見ていた。

 

突然なんですけど、僕の借金の総額をいまから調べたいと思います。

 カードを一枚ずつドローして借金の総額を調べ、エクセルに打ち込んで整理するところから【賭博狂の詩】と題されたシリーズ動画は始まる。手持ちのカードをひとつひとつ提示しつつ、そのカードを作ったタイミング、なにを払うために作ったのか、まつわる借金の思い出を語る、独自のコンテンツ性を持った動画である。

 

 とはいっても、ここから地道に、こつこつと努力して成り上がっていく動画というわけではない。ひとの良さを生かしてご飯をおごってもらいながら毎日を過ごし、たまに日雇いをし、それを元手に借金を借り換えしながらなんとか家賃を払い、その合間にギャンブルをするという生活の様子が淡々としたトーンで記録されている。

 

十八頭もいる…。そんなの、当たんないっすけどね、ふつう…。

 レース直前の映像を見ながらぽろっとこぼしたこのひと言が本質をついていて感動してしまった。僕みたいなもうまったく賭け事をやらない人間がこれを言うとフェイクになっちゃうんですよ。浸かりきった場所でやっと言える真実の言葉というのがこの世の中にはある。

 リアルなシチュエーションが増強している、という要因も大きいのだけども、それを差し引いても言葉選びのうまい、詩人タイプのかたで、朴訥と語られる言葉のひとつひとつに心を動かす力がある。

 

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 「現金は仮想通貨よりも不安定」というパンチラインが輝いている。ATMに入金しても、1万円以下なら引き落とされないという生活のtipsが披露されるのも良い。

 この後、ここで預金した6000円は哀れな末路をたどることになる。

 

 「執筆」と題されたこちらの回では、パチンコを売ったあと、「おいおい、いいパソコン持ってんじゃねえか」という視聴者からのツッコミに答えている。べつに借金があってもパソコンくらいはいいものを持っておくといい(とくにこのかたのようなスキルセットがあれば)のだけど、貧乏して人に頼る生活をしていると、良いものを持っていることにちょっと違和感というか罪悪感が芽生えるものですよね。

 この動画でも、フィリピンのマフィアにこのパソコンを売ったあと買い戻したエピソードを語って、パソコンを持つことに対してのエクスキューズをしている。

 

僕の支払わなきゃいけない金額に対して、お金を作っていく能力が追いついてないんですね…。

 回を重ねていくにつれ、この(まだ人生を立て直せる)多重債務者の、人生に対するスタンス、内面に持つ考えかたが見えてくる。てらいのないひとつのセルフ・ドキュメンタリー作品だ。

 

まだ、自己破産する感じではないかなあ、と思うんですけどね。まあ、……うん。プライドじゃないですけど、なんとなくね。

 自己破産は「する理由がとくにない」からしていないと言う。この「する理由が特にない」という感覚が怠惰な人間のひとりとしてちょっと僕の心に刺さった。他人のようには思えずに、このVlogの更新を追いかけている。

 

 もともと多くのフォロワーがいる、インターネットの有名人なので、YouTubeの初動はかなり良かったが、まあ世のなかの常で、すこしずつ数字は落ちてきている。しかし、物珍しさとか、好奇心だけで済ませてしまうにはちょっと惜しい、ある種の人間の内奥がちょっと見えるドキュメンタリーなだけに、もうすこし視聴者を獲得してほしい。

 

 ここまでの断片で、ちょっとでもピンときたかたは、ぜひ動画をどうぞ。noteもとても面白いので、動画が苦手であれば、こちらでも。

片づけだけが正解じゃない

 

 オフィスで机とコンピューターをもらってから、「机きれいにしたら?」「フォルダ整理したほうがいいよ」「ものをそのへんにほおっておく意味がわからない」といったことを言われるようになって、やれやれ、という気持ちでいる。もう2020年だというのに、どうして物を整理するのが好きなひとたちは自分たちのやりかただけが唯一正しいことであるかのようにふるまうのか。

 

 僕はほかの多くの片づけないひとびと*1と同様に、使ったものはその辺にほおっておく暮らしをずっと続けてきた。床や机や階段の段、電子レンジの上、……物を置ける表面があるところにはつねに物を置いてきたし、物を置きすぎて表面が尽きたらつぎは物の上に物を置いていた。

 しかしそれは、そういうことをする人間が整理のできる人間より劣っていることを示すわけではない。両者は、ただ、違うだけなのである。

 

 そもそも、物が特定の場所にフィックスされている環境って、恐ろしくないですか? 自然界で物が使用のたびに元に戻されることってあるでしょうか? 僕はないと思うし、だから、エントロピーが低い環境にいると、本能的な恐怖を覚える。新しい部屋に入ると、すこしずつものを使ったその場所にほおっておくようにして、自分が心地よいと思える空間を作っていく。我々の行動は「散らかしている」「整理ができない」といったネガティブなイメージを持つ言葉だけでのみ語られるべきではない。そうではなく、自分が心地よい環境を「建造している」「クリエイトしている」のであり、それは「片づけ」「整理」と(方向性が違うだけで)同等に徳のある営みなのである。

 

 物をその場所にほおっておくのには、認知的な理由もある。「散らかっていると必要なものを探せないでしょ?(だから片づけなさい)」というよく使われる修辞疑問文は、散らかっていると探せないひとの視点から考えられたものである。

 我々は空間的に物の位置を把握しているのではなく、「最後にここで使ったから、そのままてきとうにほおっておいたとすると、だいたいあの辺にあるな」といったエピソード記憶を使って所有物を管理しているのである。整理さえしなければ、物の位置情報には、かならず、必然的なバックストーリーが紐づく。片づけないがわの人間は、無機質な座標ではなく、物語のほうを主要な認知リソースとしているのだ。どちらに優劣があるというものではない。

 

 残念ながらいまの社会では、(このことに限らず)多様性が十分に尊重されず、どちらかの側がどちらかの側に、無自覚な権力をふるっている。しかしそれでも人類はこれまでの歴史の中で(不利を被っている側にとっては、十分な速度とは言えないが)徐々に、無自覚を自覚に変え、自覚を行動の変化へとつなげてきた。

 すこし先の未来では、マンションのショールームにはきれいに整った部屋と汚く雑然とした部屋の2パターンが用意されるようになるだろうし、子供のプライベートスペースを勝手に掃除する行為は虐待だとみなされるようになるだろうし、フィクションにおいて汚い部屋が人格上の欠点として表象されることもなくなるだろう。

 僕もこれまでのやりかたを変えず、使ったものはそのへんに置きっぱなしにする、ということを(他人に迷惑が掛からない範囲で)続けていこうと思う。

*1:僕のほかにも中野一花さん、などがいる。