片づけだけが正解じゃない

 

 オフィスで机とコンピューターをもらってから、「机きれいにしたら?」「フォルダ整理したほうがいいよ」「ものをそのへんにほおっておく意味がわからない」といったことを言われるようになって、やれやれ、という気持ちでいる。もう2020年だというのに、どうして物を整理するのが好きなひとたちは自分たちのやりかただけが唯一正しいことであるかのようにふるまうのか。

 

 僕はほかの多くの片づけないひとびと*1と同様に、使ったものはその辺にほおっておく暮らしをずっと続けてきた。床や机や階段の段、電子レンジの上、……物を置ける表面があるところにはつねに物を置いてきたし、物を置きすぎて表面が尽きたらつぎは物の上に物を置いていた。

 しかしそれは、そういうことをする人間が整理のできる人間より劣っていることを示すわけではない。両者は、ただ、違うだけなのである。

 

 そもそも、物が特定の場所にフィックスされている環境って、恐ろしくないですか? 自然界で物が使用のたびに元に戻されることってあるでしょうか? 僕はないと思うし、だから、エントロピーが低い環境にいると、本能的な恐怖を覚える。新しい部屋に入ると、すこしずつものを使ったその場所にほおっておくようにして、自分が心地よいと思える空間を作っていく。我々の行動は「散らかしている」「整理ができない」といったネガティブなイメージを持つ言葉だけでのみ語られるべきではない。そうではなく、自分が心地よい環境を「建造している」「クリエイトしている」のであり、それは「片づけ」「整理」と(方向性が違うだけで)同等に徳のある営みなのである。

 

 物をその場所にほおっておくのには、認知的な理由もある。「散らかっていると必要なものを探せないでしょ?(だから片づけなさい)」というよく使われる修辞疑問文は、散らかっていると探せないひとの視点から考えられたものである。

 我々は空間的に物の位置を把握しているのではなく、「最後にここで使ったから、そのままてきとうにほおっておいたとすると、だいたいあの辺にあるな」といったエピソード記憶を使って所有物を管理しているのである。整理さえしなければ、物の位置情報には、かならず、必然的なバックストーリーが紐づく。片づけないがわの人間は、無機質な座標ではなく、物語のほうを主要な認知リソースとしているのだ。どちらに優劣があるというものではない。

 

 残念ながらいまの社会では、(このことに限らず)多様性が十分に尊重されず、どちらかの側がどちらかの側に、無自覚な権力をふるっている。しかしそれでも人類はこれまでの歴史の中で(不利を被っている側にとっては、十分な速度とは言えないが)徐々に、無自覚を自覚に変え、自覚を行動の変化へとつなげてきた。

 すこし先の未来では、マンションのショールームにはきれいに整った部屋と汚く雑然とした部屋の2パターンが用意されるようになるだろうし、子供のプライベートスペースを勝手に掃除する行為は虐待だとみなされるようになるだろうし、フィクションにおいて汚い部屋が人格上の欠点として表象されることもなくなるだろう。

 僕もこれまでのやりかたを変えず、使ったものはそのへんに置きっぱなしにする、ということを(他人に迷惑が掛からない範囲で)続けていこうと思う。

*1:僕のほかにも中野一花さん、などがいる。