組体操の思い出

 

 Twitterをしていると組体操の話題がよく流れてくる。そういえば組体操の思い出がある。

 

 僕は当時地元の小学校に通う5年生だった。体が綿毛でできていたという事情もあり、体重が非常に軽かった。たしか、僕は重さ18kgの状態で小学校に入学し、毎年1kgずつ順調に成長していったという記憶がある。小学校5年生のころには23kgあった計算になるが、これはめちゃくちゃ軽い。ひとに会うたびに「細いね~」「ご飯食べてる?「前より痩せた?」(痩せてない)と聞かれていた。

 

 その軽さがたったひとつの決め手となり、僕は運動会の出し物の組体操でタワーの頂上に立つ役目に回されることとなった。

 

 僕の小学校の運動会で毎年5年生男子が行うことになっていた組体操には、ふたつの大技があった。ひとつは4段ピラミッドで、10名の小学生が4名3名2名1名と這いつくばってピラミッドを作り、一番上の1名の背中の上に僕が立って腕を広げることで完成する。こちらは四つ足で体重を支えることもありそこまで難しい技ではなく、練習でも危険な崩れかたをすることはなかった。

 

 問題だったのはもうひとつの技、3段タワーのほうである。まず1段目を構成する9名が円陣を組んでしゃがむ。その上に6名の円陣が乗り、さらにその上に3名の円陣が乗る。しゃがんだ3段のクラスメイトたちの上に僕がよじ登る。そのあと、9名が立ち上がり、6名が立ち上がり、3名が立ち上がり、その上に乗っている僕が立ち上がる。これで成功、となる技であったが、まあ難しかった。

 

 練習での成功率は5割を切っていた。小学生とはいえ3名分の上に乗るのであるからけっこうな高さがあるうえに、みんな立っているのでバランスを崩したときはけっこうあらぬ方向に落ちてしまう。

 

 事故を防ぐため、タワーのメンバーにあぶれたクラスメイトたちが、「タワーが崩れたら受け止める役目」としてタワーの周りに配置されていた。そのなかに、当時学年でいちばん体重が重かったAくんがいた。

 

 Aくんは、濁した言いかたをすると、当時その学年内で身内からそこまで敬意を払われていないひとだった。断言はできないけれど、ひょっとしたら軽いいじめくらいはあったのかもしれない。彼は太っていて、近づくとすこし臭かった。異臭が苦手だったり、異臭を憎んでいたり、そもそもたんにひとを軽んじるのがライフワークなひとはけっこういるものである。

 

 タワーが崩れるたびに僕は彼に受け止められることになり、当然においがする。最初にタワーが崩れて受け止められたときは正直「これが続くのかよ、勘弁してくれよ」と思った。

 

 練習を続けるうちに、僕を受け止めてくる彼との信頼関係も徐々にできていって、しだいに、タワーが失敗しなかったとき(その場合僕はふつうにタワーをいちばん上から這い降りていくことになる)もぐわっと僕をかかえておろしてくれるようになった。そしてそういう練習が続くと、ひとが発しているにおいとかは、信頼感や安全に比べてそこまで重要ではないものになってくる。

 

 本番までずっと、変わることなく彼は臭かったが、でもよく考えてみるとひとが発しているにおいというのは、そんなにたいしたことではないのではないか。発しているにおいの良しあしでそのひととの付き合いかたを変えることもないのではないか。人生の早い時期に体感レベルでそう思えたことは本当に良かったと思う。あのときの彼に、改めて感謝します。

Peppertonesにひとめぼれ

 

 最近、peppertonesという韓国のバンドにはまっている。まあまずは聞いてみてくれよ。

 

 なかなか僕が読める言語での情報は見つからなかったが、とりあえず調べたところによると、KAISTというめちゃくちゃ頭の良い理系の大学出身(学部はふたりともコンピューター・サイエンスだったらしい)の二人組によって2003年に結成されたバンドで、これまでに6枚のスタジオアルバムをリリースしている。ハングルでは페퍼톤스とつづるが、これはpeppertonesの音と対応しているらしい。

 

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 ぺぽとんす。響きがかわいい。

 

 ひたすらに、曲がいいんですよね彼ら。基本的にはキラキラめだけど、そこまでスクールカーストが高まりきらない程度にエモさとひねくれを内側にもつ、感傷を残しながらも爽快なポップソングを大量に世に供給しているバンドです。しかも音がいちいちよくて、軽やかなメロディーの隙間に挟まれる一瞬の素敵すぎる音の色に持ってかれてしまうことのなんと多さか。

 音楽的には微妙に違うとは思うけど、立ち位置的には日本でいうASIAN KUNG-FU GENERATIONとかスピッツと重なる雰囲気があるのではないでしょうか。

 

 ネットで調べると「韓国の渋谷系!」と言った煽り文句で紹介されていることも多い。最近の曲は必ずしもそうではないと思うけど、初期の名曲、「Ready, Get Set, Go!」なんかを聞くとなるほどとわかってくる。これはもうただのcymbalsですね。

 なかなか曲ごとのバリエーションを出すのが簡単じゃない作風だと思うんだけど、いまのところ飽きることなくどんどんつぎの曲をつぎの曲を、と聞いていられる。

 

 そしてそのPeppertonesさんのなかでも特別に好きなのがこちらの曲なんですね。曲は神妙なストリングスからはじまって早くも名曲の雰囲気、刻むバックミュージックのうえを抑制のきいた美メロが進んでいくさまは、生理的によさを感じずにはいられない。そして2分27秒のさっきはユニゾンだったのにすこしずらしたギターのフレーズで天国が見える。

 3分11秒のあたりから始まるバックのギターも良い。そしてMVも良く、ふたりの着ている宇宙飛行士風の衣装も良いし、そもそもふたりがイケてるオタクみたいな要望をしているのがすべて悪い。良すぎですね。

 

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 最後のこのカットは笑ってしまう。この高台にあるのは、たぶんNソウルタワーですね。

 

 興味があればこちらのこの曲のLIVE映像もどうぞ。かっこよすぎて魂がちぎれそうになりますわね。

優しい世界のサッカー~2019シーズンJ1リーグ第32節 札幌vs磐田~

 

 今年のJ1リーグはこの試合も含めるとのこりあと3試合。優勝争いと降格争いがもっとも盛り上がる時期に差しかかっている。この試合前の時点で札幌は8位。降格の可能性も上位に食い込む可能性も数字上消滅していて、とくにモチベーションはない。それが災いしてか、最近はリーグ戦での調子を顕著に落としている。

 

 一方の磐田は最下位。この試合で敗戦した場合J2リーグへの降格が決まってしまう。もし引き分けや勝利した場合でも、競争相手である松本と湘南の結果次第ではやはり降格が確定する。かかっているものの重さがつりあわないふたつのチームの対決であった。

 

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 結果はこんな感じになりました。シーズン終盤の降格圏に沈むチームとの戦いは、「背負っているものが大きい相手。必死で来るはず。難しい戦いになるだろう」などといった形容がされることが多い。しかし、相手はシーズンを通した総合力で降格圏に沈んでいるのである。からして、難しい戦いになる、くらいのリスペクトのある表現はしつつも、それでも最終的には勝てるでしょう、くらいの甘い気持ちで観ていた。

 

 試合の入りのときこそ前からプレスをかけてきたものの、札幌のボール保持時、基本的には磐田の前線は札幌のビルドアップ部隊には触らず、中央のゾーンを守っている。札幌が前進すると磐田は割り切って後退する。横幅を使われてもスライドは控えめにし、札幌のワイドに張った選手からクロスが上がってくるまでは我慢し、そのクロスになんとかひとを集めてゴールだけは守る。といった戦いかたをしてきた。

 

 厄介な割り切りかたではあるが、絶対に勝ちが欲しいのは相手のほう。焦らずにポゼッションをして、攻めるというよりはカウンターをもらわないことを基準にポジショニングしてボールを動かす。そういう落ち着いた戦いかたができれば、懸ける思いの大きい相手をうまくいなすことができる。

 

 しかしそんな大人で冷酷なサッカーができないのが僕の応援しているクラブのかわいいところだった。88分に同点に追いついたあと、なぜかオープンな殴り合いを選択。なんでそんなに優しいんだ。そしてそのまま最後の最後にPKを与えてしまう。荒木がそれを真正面に蹴りこんで磐田の勝利。磐田にとっては非常に劇的な一戦となり、もしこのまま磐田が残留するということになったら磐田サポーターたちはこの試合を10年間はずっと忘れないだろう。

 

 まあでもこれでいいのかもしれない。ここ数年の札幌は磐田に重要な勝ち点をたくさん恵んでもらった。そのちょっとした恩返しになったのかなとも思うし、せっかくなので磐田さんには、ここから、奇跡の残留劇を決めてほしい。

バーで気づいたこと 「デモグラフィックデータから座る席を予測する」編

 

 ちょっと前から月に3日だけ、とあるバーのお手伝いをしている。カウンターの内側に立って、お客さんの話し相手をしたりお客さんにお酒を作ったりするというのは、ちょっとした憧れのシチュエーションではないだろうか。

 

 そんなことを楽しみながらやらせてもらっているが、そんななかで気づいたことがある。

 

 これはもう単なる体感の話なのだけど、なんとなく、お客さんによって座る場所に規則性があるように感じる。僕の立っているバーの席図を簡単に描くと以下のようになる。

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 L字型カウンターに、席が8つあるだけのちいさなバーである。店舗自体も広くはなく、ほかのお客さんに気づかれずに背後を移動することは、たとえ背後を取られるお客さんが目隠しをしていたとしても不可能だろう。

 

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 べつのタイミングで作った図なので一貫性がないが容赦してほしい。どのような属性を持ったお客さんがどの席に座りやすいのか、その傾向の話だ。男性のお客さんが来るときには図の水色の部分に、女性のお客さんが来るときには図のピンク色の部分に座ることが多い、ような気がする。また、男女問わず、複数人連れのお客さんは図のピンク色の部分に、ひとりで来たお客さんは図の水色の部分に座ることが多いような気がするのである。

 また、このお店や、ここでなくてもバーという形態のお店に比較的慣れているっぽいひとは水色のところに、あまり慣れていなさそうあるいは初めてのひとはピンク色の部分に座る傾向があるような雰囲気がある。

 

 これはなぜなのだろうか。理由があるのか、それともただの偶然なのか、あるいは偶然ですらなく僕のバイアスあるいは観測の偏りなのか。答えは出しようもないが、とりあえず材料を整理することはできる。水色とピンク色の席には以下のような相違点がある、と思う。

 

水色:

店主(この場合は僕)が自然にしているときの正面が向く位置になる。

店の奥側。出入口が遠く。混雑時は人で塞がれる。

 

ピンク色:

店主(この場合は僕)が自然にしているとき、側面が向く位置になる。

出入り口から近い。

 

 このような席の諸条件と、そこに座る人物のあいだにはなにか関係がありそうである。この件についてはひきつづき観察を続けていきたい。

 

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 ちなみに、先ほどの図にはピンク色にも水色にも含まれない席がひとつ残されている。L字型の端っこ、入り口に近い図の一番上の席である。これは不手際ではない。

 

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 実際の写真を見ていただくとわかるとおり、物件の都合上、この席だけ非常にコンパクトになっている。ここはどういう席なのか? 観察がいちおうの答えを与えてくれている。

 ここにはおじいちゃんのお客さんが座って、ゆっくりとチルしていることが非常に多い、気がする。

 

 狭いところが落ち着くのだろうか。

 

ノーベル文学賞をどれくらい読んでいるのか? 3

 

 

 前回、1949年までの発表が終わったところで、僕の読んだことある人はたった4名だった。ここで、最初の抱負を振り返りたい。

 

僕はわりと文学、とくに海外文学に詳しいと自分で思っているのでそこそこのスコアを期待したい。

 いまのところまだ「そこそこのスコア」には到達していないと思われる。なんとか挽回していきたい。

 

1950年代​
肖像 受賞者 国籍 ジャンル 備考
1950年 Bertrand Russell transparent bg.png バートランド・ラッセル イギリスの旗 イギリス 哲学  
1951年 Lagerkvist.jpg ペール・ラーゲルクヴィスト  スウェーデン 小説  
1952年 François Mauriac 1952.jpg フランソワ・モーリアック フランスの旗 フランス 小説  
1953年 Churchill HU 90973.jpg ウィンストン・チャーチル イギリスの旗 イギリス 伝記 首相初の受賞者
1954年 Ernest Hemingway 1950 crop.jpg アーネスト・ヘミングウェイ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 小説  
1955年 Halldór Kiljan Laxness 1955.jpg ハルドル・ラクスネス アイスランドの旗 アイスランド 小説 アイスランド人初の受賞者
1956年 JRJimenez.JPG フアン・ラモン・ヒメネス スペインの旗 スペイン スペイン人として3人目の受賞者
1957年 Camus2.jpg アルベール・カミュ フランスの旗 フランス 小説・戯曲  
1958年 Boris Pasternak in youth.jpg ボリス・L・パステルナーク ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 ロシア人として2人目の受賞者
受諾後、ソ連政府の意向により辞退させられたが、死去後に遺族が受け取った
1959年 Salvatore Quasimodo 1959.jpg サルヴァトーレ・クァジモド イタリアの旗 イタリア  

 1950年代は僕にとって素晴らしい10年間だった。ラッセルはもちろん読んだことがあるし、ヘミングウェイももちろん読んだことがある。カミュももちろん読んだことがあるし、パステルナークももちろん読んだことがある。クアジーモドももちろん読んだことがある。

 とくにパステルナークは本当に大好きな作家で、僕が大学の第二外国語にロシア語を選んだことは(そしてそれがもとで留年したことも)基本的には彼の影響である。

 高校時代になぜか図書館にあって、読んだ『ドクトル・ジバゴ』は大きな通過儀礼だった。そのあと、高校二年の二月、雪に閉ざされた北海道大学近くの古本屋で未知谷から出ていた『主題と変奏』を買って、記念碑のように大切に読んでいた。大学に通っていたときに出た『全詩集』もめっちゃ買ってずっと読んでいた。かっこいい、パステルナーク。でもその名前を最初に知るきっかけになったのは、最相葉月さんの『絶対音感』だったんですよね。

 

絶対音感 (新潮文庫)

絶対音感 (新潮文庫)

 

 これで合計9名となった。

 

1960年代​
肖像 受賞者 国籍 ジャンル 備考
1960年 Saint-John Perse 1960.jpg サン=ジョン・ペルス フランスの旗 フランス  
1961年 S. Kragujevic, Ivo Andric, 1961.jpg イヴォ・アンドリッチ ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア 小説 ユーゴスラビア人初の受賞者
セルビア・クロアチア語での著作
1962年 John Steinbeck 1962.jpg ジョン・スタインベック アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 小説  
1963年 Giorgos Seferis 1963.jpg イオルゴス・セフェリス ギリシャ王国の旗 ギリシャ ギリシャ人初の受賞者
1964年 Sartre 1967 crop.jpg ジャン=ポール・サルトル フランスの旗 フランス 哲学・小説・戯曲 受賞辞退
1965年 Sholokhov-1938.jpg ミハイル・ショーロホフ ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 小説 ロシア人として3人目の受賞者
1966年 Agnon.jpg シュムエル・アグノン イスラエルの旗 イスラエル 小説 イスラエル人初の受賞者
ネリー・ザックスと共に受賞
Nelly Sachs 1966.jpg ネリー・ザックス  スウェーデン ドイツ出身。
シュムエル・アグノンと共に受賞
1967年 MiguelAngelAsturias.JPG ミゲル・アンヘル・アストゥリアス グアテマラの旗 グアテマラ 小説 グアテマラ人初の受賞者
1968年 Yasunari Kawabata 1938.jpg 川端康成 日本の旗 日本 小説 日本人初の受賞者
1969年 Samuel Beckett, Pic, 1 (cropped).jpg サミュエル・ベケット アイルランドの旗 アイルランド 戯曲・小説 アイルランド人として3人目の受賞者
英語とフランス語での著作

 この中で読んだことがあるのは川端康成の『名人』のみである。ほかに語ることもとくにない。これで10名。つぎに期待したい。

 

次回

灯台で眠れ


 妹が熱病にかかってしまった! 僕の命よりも大切な妹が! ……というのはすこし言いすぎだったかもしれない。僕はふだんは生まれ故郷を離れ、ずっと遠くの宿場町にある幼稚舎で商業の勉強をしながら馬の世話をしているのだが、そこでは友達にも親方にもめぐまれ、生まれ故郷であるちいさな港町のことなんて思い出さない日のほうが多いくらいだった。妹にしても、冬の里帰りのときにはじめてその存在を知った。母と、ベッドで石になって寝たきりになっている父に挨拶をして、中庭に靴を乾かしに出たとき、そこには籐でできたゆりかごにくるまれた僕の妹がいた。「かあさん! これは誰!」「あら、あなたの妹よ」「そんなこと、ひとことも聞いてないよ!」「ごめんね。手紙を出すのを忘れていたわ」――なんて粗忽な母だろう!

 

 その日は一日中怒りが収まらなかった。ふだんはずっと遠くの宿場町にいる僕だって、この家族の大事な一員なのに。この家族に起きた、メンバーが増えるという重大な事柄を、どうして教えてくれなかったのか。「聞きなさい、お兄ちゃん。お産が大変だったんだよ。それにこの子は、生まれてしまってもまだ、生まれるまえの国のことが恋しいみたいで、しょっちゅう自分で息を止めるんだ。ほら、見てごらん」石になってしまった父が、唇をぎしぎし言わせながら僕にそう語りかけた。家族にしか聞き取りようがない、かすれて乾いた声だ。僕は父に従って、父の腕のなかでキルトにくるまれた妹を覗きこんだ。たしかに、妹は息を止めていた。「もし、この子が死んでしまったら、そのときは必ずあなたに手紙を書こうと思っていたのよ。そっちのほうが、伝えなければならない重要な事柄だからね」と母が言った。僕は母親を許した。

 

 そのあとになってはじめて、妹をかわいがることができた。なにかに怒りを抱えたままべつのなにかをかわいがることはできないのだ。

 

 冬の里帰りのあいだじゅうずっと、籐のゆりかごと妹を抱えて、ひまがあれば港町を散歩していた。ある日は、町の東のはずれにある小川に抱きかかえた妹の小さな足をそっとつけさせて、この世には冷たい水の流れがあるのだということを教えた。妹はすこしだけ息を止めたあと、すぐに息を吹き返した。べつの日は、十日に一度だけ開かれるマーケットで妹に似合う涎掛けを探し、これだというものを見つけたあとは値段交渉のやりかたを実演して見せた。妹はすこしだけ息を止めたあと、すぐに息を吹き返した。またある日には町の北にある灯台を訪れ、夕暮れと、日没と、灯台に火が灯る瞬間をふたりで見届けた。なにかを教えることはなかったが(言葉でなにを教えても、妹はまだわからなかっただろうから)、それでも賢い(もしくは、これから成長して賢くなるはずの)妹はこの世界をつかさどっている規則について重要なことに気づいたんじゃないだろうか。妹はきっと、今日は息を止めなかったはずだ。そしてまたべつの日には町をすこし離れた高台の森で、霧と綿毛に包まれた散策のときを過ごした。洞穴で休憩していると、妹はぐんと腕を伸ばして目の前にふわりと飛んできた綿毛をつかんだ。妹がはっきりとこの世のものをつかんだ。僕はそれがうれしかった。

 

 家族が増えた冬はあっというまに過ぎた。僕はすこしの満足感と多大な名残惜しさに包まれて、妹と母と父の残る故郷を乗合馬車に乗って後にした。馬車の車軸はがたがたで、均された道を行くときでさえ激しく揺れたので、僕は御者に文句を言った。「こんな馬車! こんなものを直さずに使っているなんて、もう商売とは言えないぞ!」「うるさい! そんな金がどこにあるっていうんだ。本当なら幼児料金のガキなんか載せてやってる場合じゃねえんだ。文句言うんじゃねえ」しばらくの言い合いのあと、馬車はさらに荒れた道に差しかかり、振動の騒音はおたがいの声を聞き分けることさえできないほどとなったので、僕と御者は口論を続けることをあきらめた。

 

 春から秋にかけて、僕はまた宿場町での仕事と勉強に戻った。筆不精だった母は、これまでよりはまめに妹のことを書いて送ってきてくれた。僕は妹に手紙を送りはしなかったけど(文字でなにを書いても、妹はまだわからなかっただろうから)、たまに宿場町の風景をスケッチして、その画布を追加料金を払って母への返事といっしょに送った。生まれ故郷の故郷では見せてあげられなかったものが、この宿場町にはたくさんあるのだ。

 

 冬になって、そろそろ僕にもまた長い休暇が与えられる番だったのだけど、宿場町では痘病が流行していて、馬の世話をする人手が足りなくなっていた。旅行者が現れるたびに僕はそれとなく尋ねた。「今回の疫病はどうでしょうか? 海岸沿いの村のほうまで広がっていたりするのでしょうか?」旅人は僕を相手にしないか、曖昧な返事を返すのみだった。ただ、疫病はひとの多く住んでいる街でしか広がらないといううわさを信じて、僕は仕事と勉強を続け、手が空いたらまたおなじことを旅行者へ尋ねた。しかしそのうちに旅行者さえめったに現れないようになり、一番仲の良かった友達と、僕を気にかけてくれていた親方が病死した。馬だけは平気な顔で萱を食べていた。僕は街角の宗教者のもとに通い、死や死後の世界について考えるようになった。

 

 夏にようやく休暇が与えられ、僕は一年半ぶりに故郷へと帰った。父はベッドの上で完全な石になっていた。父の固い指の間に自分の指を滑り込ませて遅すぎた別れの挨拶をしたあと、妹を探した。妹は中庭で、籐のゆりかごにくるまれて眠っていた。籐のゆりかごは、妹にはすこし窮屈に見えた。「お母さん、妹に新しいゆりかごが必要だよ! 明日僕が買いに行ってもいい?」「あら、でもそんなお金はないわ」「大丈夫、僕が持ってるから」

 

 その夜に妹は大声をあげて泣いた。触れてみずとも、見るだけではっきりとわかるくらいの高熱を出していた。妹が熱病にかかってしまった! 僕の命よりも大切な妹が! ……というのはすこし言いすぎだったかもしれない。結局のところ命より大切なものなんてこの世には存在しないのだから。命のために、僕たちは頑張ったり休暇をもらったり、笑ったり泣いたりするのだから。

 

 二日目も熱は下がらなかった。僕はお金を握りしめて、町のはずれの黒い森に棲んでいる魔女のもとを訪ねた。魔女はお金を受け取ろうとせず、かわりに僕の精液と包皮を要求した。「極悪の魔女め!」僕がののしるたびに魔女は楽しそうに笑った。僕は屈辱的な取引を飲んだ。

 

 魔女は言った。妹の熱はこれから11日で引くだろう、と。11日目ののちに大きな発作が起きるが、それは病魔が妹の体を離す際の合図であり、どれだけ不気味に見えても気にすることはない、と。命は助かるが、目は見えなくなるだろう、と。治す方法はないのかと魔女を問い詰めたが、魔女は首を振っただけだった。「治す方法はあるが、必要なものをそろえるだけでひと月はかかるだろうね」

 

 それでもと食ってかかったが、魔女は大あくびをして床に眠り込んでしまった。寝言なのか、それともうつつの言葉なのか、眠り込む一瞬まえに魔女は呟いた。「灯台で眠れ」そのつぶやきを復唱しながら、僕は町へと戻った。空の繭がいくつか、森小屋の玄関前に落ちていたことには気づかなかった。

 

 町は睡魔に襲われていた。睡魔に耐えるため、僕は親指の爪を根元まではがしながら歩いた。右足で左足を、左足で右足を踏みつけながら歩いた。どの家の軒先にも空っぽの白い繭が落ちていた。睡魔には繭のとろとろとした中身をおやつにしながら家々を訪ね歩くという習性があるのだ。直接の訪問を免れた僕でさえも、意識が落ちないようにしているだけで必死だった。帰り着いた僕たち家族の家にも、睡魔が訪れた痕跡があった。

 

 妹は中庭ではなく、部屋にいた。母は胸のなかに妹を抱きかかえながら眠っていた。妹が息をしているのか、それとも止めているのかは、母の傾いた首に隠れてよくわからなかった。僕は母のなかから妹を取りだそうとしたが、どう取り出しても母は妹が胸のなかを離れた瞬間にバランスを崩してしまう。しかたなく、僕は父親を二階のベッドから運んできた。石になった父親はとても重く、それだけで半日の大仕事だった。バランスを崩した母を父で支えた。僕は妹を抱いて玄関先のいすに座った。そのままずっと妹の口元を見張っていた。息を止めているのか、いないのか。

 

 妹の熱が下がるまで11日間のあいだ、僕はずっとそうしていた。妹は眠りながら、ときどき息を止めた。そのあと、ときにはすこしして、ときにはしばらくして息を吹き返した。見張っていてもどうすることもできなかった。生きている人間の息を無理やり止めることはできる。けれど、自分の意思で息を止めている人間の息を、どうしてふたたび吹き返させることができるだろうか。

 

 睡魔に襲われた町は、11日間ずっと静かだった。ただ何重にもなった人々の寝息だけが、風を伝わって聞こえてきた。僕は日々を眠気に耐えながら過ごした。風でお腹を満たし、空気のなかにある微粒子を味わい、霧と涙でのどを潤した。毎日毎時間口元を見張りながら、妹の回復を祈っていた。視力を失うという魔女のお告げが誤りであることだけを信じていた。

 

 そして11日が過ぎ、妹は大きな発作を起こし、そのあと熱は下がった。僕は自分の手を綿毛の動きにして妹の目の前を横切らせたが、妹がそれをつかまえることはなかった。太陽が落ち、あたりが真っ暗になっても、妹の瞳はある一点へ向けて固定され動かなかった。そして僕は決意し、妹を抱きかかえ、歩みを始めた。右足で左足を踏み、左足で右足を踏み、爪をはがし、血の出ている指を順番に妹の口に含ませた。その瞳が差している方角へ向かった。「灯台で眠れ」という魔女の最後の言葉を思い出した。

 

 僕と妹が灯台に着いたとき、ちょうど太陽が海へ近づいていくところだった。しばらくのあいだその美しい景色を呆然と眺めていたあと、妹にはこれが見えていないのだということを思い出し、また歩みを続けた。煤にまみれた灯台のらせん階段を上った。階段が終わり、灯火室にたどり着いたとき、やっとこれで眠りにつけるという安心感があたたかく僕を包み込こんだ。まだやるべきことがすこしあった。石炭をスコップで炉へ落したあと、油布で火種を作った。すすけた鏡を引き裂いた上着で拭いた。回りはじめた蒸気機関に、回転鏡のチェーンを括りつけた。回転する光が海を照らしはじめると、妹は目を回しはじめた。自分の腰で床に座り、なにか遠くにある興味深いものに触れようとしているように手を伸ばした。

 

 ちょうど夕日が沈んでいくところだった。僕は灯火室の煤まみれの床の上に横たわった。この世界でやり残したことなどひとつもないと思えたので、目を覚ます期待はしなかった。目を閉じて、そのまま眠りについた。

蒲田

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 蒲田に行ってきた。住みたくない街ランキングの上位ランカー*1であるということは知っていたが、個人的にはけっこう好きな街である。交通の便もそれなりに良く(京急とJRの駅が離れすぎという難点はあるが、かわりに羽田空港が近い)、駅前も発展していているし、温泉まで湧いているし、ハード面の条件はなかなかよく、大規模にジェントリフィケーションされて高級住宅街になっているべつの時間軸があってもおかしくないのではないか。

 

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 そんな蒲田に行ったのは、推しの誕生日を記念した同人イベントが開かれていたためだった。過去コミケと文フリにそれぞれ一度だけ行ったことがあるが、いまだに、こういう、什器を並べて即席の販売ブースを作って本が売られているタイプのイベントの空気感にはなじめない。なんというか独特の、落ち着きどころのなさを感じませんか…?

 結局今回も克服できず、あらかじめ決めてあった買い物を済ませてすぐ会場を出た。こんどこそ、ゆっくりしましょうね。

 

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 そのままJRのほうの蒲田駅までもどり、バーボンロードに来た。高架の近くに小さ目で味と文化のある居酒屋、バー、スナック、ラーメン屋などがめちゃくちゃ並んでいる。

 

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 蒲田のバーボンロードを北千住で例えるならここである。(フラッグが立っているのは僕の行きたい場所なので気にしないでください)

 

 ここには「日本酒人」というとてもいい立ち飲み屋さんがある。ゆるい感じの雰囲気のお兄さんがカウンターに立っていて、日本全国から仕入れてきたその日の日本酒を、90ml300~500円くらいの価格で飲み比べることができる。

 

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 このように、注文したら瓶を近くにおいてくれるので、スムーズにフォトセッションに移行することもできる。こちらはジュースを飲んでいるように濃厚な感じの日本酒だった。

 

 そのあとは蓮沼温泉に行った。蒲田とその隣の川崎は戦闘が銭湯が充実しているというイメージがある。(戦闘も充実しているかもしれない)

 中はめちゃくちゃきれいで、お湯も温度が違う二種類と水風呂。別料金だがサウナもある。とくに水風呂が良かった。肌を切り裂くような冷たさのところが多いけれど、こちらのは若干マイルドな気がして、忍耐力を使わなくても気持ちよく体を引き締めることができた。

 

 昔、インターネットで「交互浴*2がアツい!」という記事を読んでめっちゃ交互浴にはまってたんだけどある日インターネットで「交互浴は身体に悪い」という記事を見かけてぱったりとやめていたが、また最近インターネットで「交互浴はじつは体に良いし、あいかわらずアツい!」という記事を見かけてまたしたくなっていたところだった*3。素晴らしかった。

 

 

*1:【2019】住みたくない街1位は大田区の蒲田 | 東京23区住みやすさランキングという記事には「錦糸町の劣化版」「カオス状態になる」「ゴミの出し方がエグい」「ロイヤル蒲田ボーイズ」などと言った批評が掲載されている。

*2:熱いお湯に使ったあと水風呂で体を冷やし、また熱い湯へ…というのを繰り返すお風呂の入りかた。

*3:どれも本文は読んでいない。