Laundromat(イギリス英語ではlaundrette)

 

 Laundromatというのは「コインランドリー」を表す英単語である。なので(まあ見た目からそうなのでとくに驚きはないが)コインランドリーというのは和製英語だということになる。

 

 僕自身も長いあいだ条件の悪い住宅に住んでいたので、コインランドリーにはけっこうお世話になった。お世話になったひともそうでない人も、コインランドリーというところには独特の情感があるということには同意してもらえるだろう。都市の輝きではなく暮らし、洗練と孤独、無風流と退屈のシンボルになっている。

 

 コインランドリーをモチーフにしたミュージックビデオたち。どちらの例においてもコインランドリーはなにか特別なものと出会う場所として描かれている。この情感はどこから来るんでしょうね。生活の退屈な一部でありながら、それぞれの生活が交わる場所であり、なにかを(洗濯ものなんだけど)を待つ場所でもある、そういうところがコインランドリーへのイメージを生むんでしょうか。

 

 

If you will die for me,
I will die for you

and our graves will be like two lovers washing
their clothes together
in a laundromat

If you will bring the soap
I will bring the bleach.

 

きみがぼくのために死ぬなら
ぼくはきみのために死のう

ぼくたちの墓は
コインランドリーに服をもっていく
恋人たちみたいに見えるだろう

洗剤を持ってきてくれないかい
ぼくが漂白剤を持っていくからさ

  僕がコインランドリーと聞いて思い出すのは、リチャード・ブローティガンの「ロミオとジュリエット」という短い詩。訳は高橋源一郎で、『ロンメル進軍』という詩集に収録されている。

 

 普通に読むと、この詩のなかで現実の状況として語られているのはお互いのために死ぬことを思う最初の2行のみで、残りは死を思うふたりのイメージのなかの出来事のように思える。しかし、コインランドリーに向かうふたりのほうが現実だとするほうが話の流れとしては自然に思える。コインランドリーへ向かいながら、いずれ自分たちに訪れるかもしれない死を思う。ひょっとしたらそれはコインランドリーへ向かっている今の我々そっくりなのかもしれない。

 最初の二行でふたりは、お互いのために死ぬことを誓う。それは美しいことだけど、言葉だけ見ると空虚な嘘のようにも見える。だからふたりは暮らしの一部としていっしょにコインランドリーへ行き、お互いの命なんていうイメージ的なものじゃなくて、洗剤と漂白剤という暮らしのなかに形のあるものを分担する。「ぼくたちの墓はコインランドリーに服をもっていく恋人たちみたいに見えるだろう」という宣言には、ふたりの生き方への自信のようなものが感じられる。はじめは仮定だった「ぼく」の想いは、終わりの2行では自発的な提案になる。愛をうたった詩のなかでも、トップクラスに美しいもののひとつだと思う。

 

 良きコインランドリーライフを。