村上春樹『カンガルー日和』

 

要するに、全ては僕の責任なのだ。たとえどんなに酔っ払っていても、新宿のバーで隣に座ったあしかに名刺なんて渡すべきではなかったのだ。

「あしか祭り」

 

カンガルー日和 (講談社文庫)

カンガルー日和 (講談社文庫)

 

 実家に雑に置いてあった『カンガルー日和』という本を読んだ。著者は村上春樹さんで、本の内部には佐々木マキさんという漫画家・イラストレーターの挿絵も収められている。1981年4月~1983年3月の期間に、ふつうには流通しないような形態で発売されていた小さな雑誌に寄稿していたショートショートをすべて収録した作品で、この期間は村上春樹という作家にとってキャリアの黎明期に当たる。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が出るよりもかなり前である。

 

だから引越しと言ってもものの三十分とかからなかった。金がなければないで人生はすごく簡単だ。

「チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏」

 どんなものなのかなあと思って読みはじめたらまあびっくりするくらい面白い。村上春樹は長い長編小説、短い長編小説、短編、エッセイ、翻訳と、どのジャンルでもとても面白い作品を作る*1ということは読んで知っていたけれど、ショートショートもこんなに面白いんですね…。

 

 芸術的な野心があるというよりは、自然体で、手くせをふんだんに使って書き上げられたような小説が多くてちょっとほっこりする。表題作の「カンガルー日和」や二番目の「4月のある朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」なんかがそんな感じですね。

 でもそのなかにも、通俗的なホラー小話のような落ちがつく「鏡」、手くせが高じて完全に投げやりになっている「スパゲティーの年に」、こういうアクション・ハードボイルド書いてみたかったんだけどむいてないからショートショートでやめとくぜ!みたいな「サウスベイ・ストラットーードゥービー・ブラザーズ「サウスベイ・ストラット」のためのBGM」などといった不揃いで魅力的な作品があるのも良い。

 

〈羊男さんには羊男さんの世界があるの。私には私の世界があるの。あなたにはあなたの世界がある。そうでしょ?〉

「図書館奇譚」

 6作組になっているすこし長めの「図書館奇譚」では、このあと書くことになる『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』や『ねじまき鳥クロニクル』といった傑作の素材を見ることができる。し、なんなら「図書館奇譚」の時点ですでにぜんぜん面白い。図書館を訪れた男がいきなり老人に監禁されて脳みそを吸われそうになってしまうのだけど、不思議な少女の導きで脱出計画を立てる……、というお話。

*1:短編と長編の両方がおなじくらいの水準で評価されている作家というだけでも、人類史上そんなに多くない。