踊り子に誘われてモスクワの地下街を

 

 プロモーションビデオの設定のようであるが、実際に経験した出来事である。僕は19歳で、クレムリンからほど近い場所にある一泊4000円ほどのドミトリーに宿泊していた。ドミトリーというのは、多段ベッドが何台も詰め込まれた部屋に見知らぬ人たちが空気を分け合って眠る、もっともリーズナブルなクラスの宿泊施設である。

 

 モスクワでは宿にずっと引きこもってパソコンをしていた。見るべき世界遺産や博物館、公園や教会はあちこちにあったのだが、もうこれまでの旅路でいろんなものを見過ぎていて、感性が飽和状態になっていたのである。美しいものとか心を動かすものとか、ここでしか見れないものはもうたくさんだった。かわりに共用部分にあるサモワールで沸かした紅茶を飲んだり、その辺のスーパーで買ったチョコレートをかじったりしていた。それがとても楽しかった。

 

 そうしていると、おなじ部屋に宿泊していたロシア人がきゅうに話しかけてきた。しばらく、それぞれたがいの知らない言語で話していたのだけれどなにひとつ伝わらなかったので、彼女は冷蔵庫のところへ行き、缶ビールをふたつ持って戻ってきた。「クイッ?」というジェスチャーを彼女がしたので、僕も「イエーイ! クイッ!」というジェスターをし、この場におけるはじめての意思疎通が成った。飲みながら彼女は自分のラップトップで江南スタイルを流して踊っていた。「君の国のやつでしょ?」と得意げだったので「そうです!」みたいな雰囲気を出しておいた。

 

 察しとジェスチャーしか意思疎通の手段がなかったので、本当のところどうなのかはわからない。ただ、そのとき理解したつもりになったところによると、彼女はロシアの田舎からモスクワに出稼ぎにきたストリップダンサーなのだという。僕は日本の大学生であることを伝えたが、果たしてどこまで伝わっただろうか。ビールが半分ほどなくなったころ、彼女がおいでおいで、というようなジェスチャーをしたのでついていくことにした。

 

 モスクワの市街を、彼女は僕を2,3メートル先導して、ときおり振り返りながら、踊るようなステップで歩いていく。僕は笑いながらついていくことしかできなかった。しばらくして彼女は地下街に降り、ブランドものとかではない、めちゃくちゃカジュアルな服を売っている町の服屋さんを何軒もはしごした。なにも買わず、ただてきとうに服を見つけては自分の体に当てて、僕のほうを笑いながら見たりしただけだった。

 

 途中なんどもはぐれたけど、なんとかまた見つけてもらうことができた。見つけたら彼女は僕への興味を失って、またどこかの服屋に入っていく。僕はそれについていく。ひとまわり、2時間くらいたったところで、彼女と僕は部屋に戻った。

 

 声をかけたらついてきた、めずらしいペットを連れ歩いている、……というような感覚だったのだと思う。とくになにか劇的なことが起きたわけではないので、なかなか話して面白いストーリーにはならないのだけど、そのなにも起こらなさが逆に、音楽をつければプロモーションビデオになるようなちょうどよさで、あの日の散歩のことは僕の人生の記憶にしっかりと刻まれて残っている。