シオラン『告白と呪詛』

 

告白と呪詛

告白と呪詛

 

 シオランというルーマニア出身の思想家がいる。アフォリズムという形式で本を書いたことで有名な作家である。アフォリズムというのは、なんかこう、なんらかの本質・正しいと思われるようなことを、論理や細かい説明を抜きにして、上手いこと言ってやった感のある短い散文にまとめる、という表現形式である。

 

 自らの表現形態としてアフォリズムを選ぶ作家や詩人は、いずれも曲者ぞろいであり、数としてもそう多くはない。多くはなかった。

 

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 あるSNSの登場までは。

 

 現在では人類は、これまでになかった数のアフォリズマーを抱えているのではないだろうか。これからの社会を生きていくためにも、さっき読んだばかりの『告白と呪詛』をふりかえって、良かったアフォリズムをいくつか共有したい。

 

私は神という言葉を濫発している。使いすぎている。なにかある窮極のものに触れたとき、そして、そのあとに来るものを名指す語が必要なとき、私はいつもこの神という言葉を使う。「了解不能なもの」よりも、「神」のほうが、言葉として私は好きだ。

 Twitterにいるオタクとまったくおなじことを言っているのでちょっと笑ってしまった。

 

演壇の上でしか息のつけない連中を、手始めに抹殺してみたらどうだろう。

 シオランさんはつねにペシミスティックだが、ここまで直接的な物言いはめずらしい。

 

季節というものは、つねにひとつの苦難である。自然が変化し、再生するのは、ただもう、私たち人間を急襲するためでしかない。

 不眠症や鬱といった精神的不調、そして、老化からくる身体的不調を抱えたシオランさんは、体に降りかかってくる苦しみと、そこから逃げられないことについて多く書いている。

 

 その外国詩人は、あの首都この首都とさんざん迷った末、つい最近、パリに来て住み着いた。私はそこで彼に、着想がとてもいい、この街にはいろいろと利点があるが、やはり筆頭は、誰もわずらわさずに飢え死にできることだろう、といってやった。いやが上にも元気を出させようと、私はさらに、大失態というものがパリではまったく普通のことで、さながらマスターキーの役割を果たしている、と告げた。詩人の眼がきらりと輝いたところを見ると、このささやかな指摘は、大いに彼の気に入ったようである。

 これのように、ひとつのショートショートとしても面白く読めるような作品もある。

 

「どうして断章しか書かないんです?」――若い哲学者が、とがめるようにいう。「まずは怠惰のせい。つぎが軽薄かな。嫌悪感から、ともいえるし、まあ、ほかにもいろいろ」――しかし、ちゃんとした理由はあげられない。そこで私は、仕方なく、くどくどしい釈明の言葉を並べたてた。すると哲学者は、それこそが誠意ある返答と思えたらしく、すっかり納得してくれたものだった。

 これもショートショート、……というよりは、台本仕立てなので演劇、……ショートコントですね。くすっとできる。

 

 たまにはこういう読書も良いものです。