文章をほめられることが最近立て続いていて、とてもほくほくとしている。😊
しかし僕は個人的にはまだ、「文章がうまい」ということがどういう事態を指しているのかわかっていないところがあって、いざほめられていてもなにがほめられているのかよくわからず、わからないままほくほくとしているというのが現状である。😊💭❓
文章がうまい、へた、という尺度に対するわからなさは、中学校のときのとある内面的な経験に起因しているのかもしれない。よく図書館に通っていた僕に、図書館の司書さんは良くしてくれていて、おたがいに好きな本をお知らせしておたがいそれを買って読んだりする、みたいな間柄になっていた時期があった。
あるとき僕がすすめた本にたいして、司書さんが芳しくない反応を返したことがあった。「そうだいくんはどうしてこの本を好きだと思ったの」「……、だって! 文章がうまいじゃん!」
そう言った瞬間に、「文章がうまい」と言うことでなにを言いたかったのかよくわかっていないことに気づいた。本当にこの本が好きだったのだけど、中学生だった僕にはそれを「好き」をちゃんと言い表せるくらいの読書の場数がなくて、でも、芳しくない反応だった司書さんに対してなにかが言いたくて、そこでたどり着いたのが「文章がうまい」という言いかただったのだと思う。
司書さんは「ふうん」と言って、話はそこで終わった。僕は家に帰ってから「あのとき『文章がうまい』って言ったのはほんとうは間違いで、あの本の文章も本当はうまくなんてなかったのかもしれない。背伸びして、自分でもよくわかってなかったことを言って、それが司書さんにばれたかもしれない」ととても落ち込んだ。司書さんはこれまで僕のことを、すくなくとも僕にそう思わせるくらいには、僕のことを子供ではなくひとりの人間として対等に扱ってくれていた。
さっきの子供っぽい背伸びした「文章がうまい」は、司書さんが僕にしてくれていた特別待遇を損なうのに十分な失言だったのかもしれない。そう思って深く落ち込んだ。
結局そのあとから、なんとなく図書館には足が向かなくなってしまった。「文章がうまい」という言いかたをするのも、それ以降避けるようになってしまったようなところがある。代わりに「好き!」とか「かっこいい!」とか「エモい!」とかの言いかたはしていた。たぶん言っていることがわかっていないことには変わりはないのだけれど。
それでも、文章に、「上手い⇔下手」と特徴づけるのが適切かどうかはともかく、なんらかの総合的な性質をもとにした価値判断の尺度があるというのは、なんとなくそうかもなあ、そうでないよりはそうであるほうがそれらしいな、というくらいの感じはしていて、それがなんなのか、自分がある文章を読んで「うまい」と思ったときにそれがどういうことなのか、自分が自分の文章をよくするために添削しているときにそれはどういう基準にそってやっていることなのか、そういうことについての興味は持っている。
もしおなじ興味を持っているひとがいたら、ぜひ話してみたいですね!